↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自慢の息子  作者: 智珠
第二部 神童

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/103

第032話 分単位

 十月に、表が最後に書き直された。


 十月三日の日曜だ。母が座卓で書いて、その日のうちに壁へ貼った。


 それからあとは、書き直されていない。三年間、同じ一枚が貼ってある。


            *


 書き直さなくなった理由は、たぶん簡単だ。


 変わるところが無くなった。部活が月曜から金曜まで、放課後の二時間で固定された。塾が月曜と木曜と土曜になった。学校の時間割は年に一度しか変わらない。


 動くものが無くなると、表は一枚で足りる。


            *


 平日の形はこうなる。


 六時四十分に起きる。七時十二分に家を出る。二中に七時二十六分。朝練は無いので、教室で始業まで座っている。


 授業が三時三十五分に終わる。掃除と帰りの会で十五分。そこから部活が二時間ある。着替えて、六時四十分に家へ着く。


 風呂に入って、七時半に夕飯。八時十五分から机につく。九時四十五分まで。十時十分に寝る。


            *


 塾のある日は、そこが入れ替わる。


 部活を早めに抜けて、五時四十分の電車に乗る。塾は三時間ある。帰りが九時四十分になる。


 夕飯はそのあとになる。母が待っている。待たせているという言い方は、家では出ない。


 塾の日の睡眠は、五時間半になる。週に三日ある。


            *


 塾のクラスは、曜日を移したときに変わった。


 前のクラスには小学校からの顔がいた。新しいほうには一人もいない。中学が全部ばらばらで、名前を覚える前に席替えがある。


 名前を覚えなくても、順位は分かる。掲示に出る。掲示に出る名前だけを、僕は先に覚えた。


 顔と結びつくのは、そのあとになる。順番が逆だと、覚えるのに時間がかかる。


            *


 この時刻の並びを、僕は表を見ずに言える。


 言えるようになったのが、いつかは分からない。覚えようとした記憶が無い。


 毎日同じことをやっていると、覚えるという段階が無くなる。段階が無くなると、始まりの日も無くなる。


            *


 その週から、僕は表を見なくなった。


 朝も、帰ってからも、寝る前も見ない。小学校のときは一日に三回見ていた。


 見なくても、同じものが入っている。


            *


 見なくなったことを、母には言っていない。


 言うようなことではない。表は壁にある。剥がしてもいない。


 母のほうも、何も言わなかった。見ているかどうかを確かめる場面が、そもそも無い。


            *


 管理の中身が、そのころから少しずつ移った。


 母が決めるのは、枠だけになる。何時から何時までが何、という外側だ。


 中で何をやるかは、僕が決める。数学の問題集を何ページやるか、英単語を何個覚えるか、そういうものは表に書いていない。


 書いていないところに入るものを、僕は自分で決めるようになった。


            *


 決めるやり方は、塾で教わったものと同じだ。


 範囲を回数で割る。一日あたりの量を出す。出した量を、時間で割る。一問あたり何分かけていいかが出る。


 出た数より速いと、その日は余る。遅いと、寝る時刻が動く。


 寝る時刻を動かしたことは、中学のあいだに十四回ある。数えている。


            *


 ストップウォッチは、まだ使っていた。


 母が小学五年の冬に買ってきたやつだ。黒くて、ボタンが三つある。紐だけが青い。


 紐は使わない。机の右上に置いて、押すのはボタンだけだ。


 電池を一度替えた。中一の夏で、替えたのは僕だ。裏の小さいねじを外して、丸い電池を入れ替える。ねじは無くさなかった。


 替えたことを、母には言っていない。動かなくなったことも言っていない。動かない道具を渡した側になるのが、たぶん嫌だったのだと思う。


            *


 走るときには、いまも持っていかない。


 持っていく理由は、あると言えばある。自分でラップを取ればいい。ほかの部にはそうしている子がいた。


 やらなかった。やらない理由を、そのころは考えていなかった。


 いまも、はっきりとは書けない。


 書けないことのほうが、書けることより少ない。少ないので、書けないところだけが目につく。


            *


 余った時間ができるようになったのは、その秋からだ。


 塾の無い日に、二十分か三十分ほど余る。決めた量を、決めた時間より早く終えたぶんだ。


 余った時間に、僕は何もしなかった。


 次のぶんを前倒しでやることはできる。やると、次の日の量が減る。減ると、その日にまた余る。余りが動いていくだけで、どこかで消えるわけではない。


 だから、やらなかった。


            *


 何もしない二十分の使い方を、僕は持っていない。


 机に座ったまま、シャープペンの芯を出したり戻したりしていた。誰かが同じことをしているのを、前に見ている。


 それをやってみて、七回で飽きた。


 窓の外は、うちの二階からだと、隣の家の屋根と、その向こうの電線が見える。電線は三本ある。風の強い日に、三本が別々の揺れ方をする。


 揺れ方を見ていると、二十分が終わる。


 学校でも、余る時間ができるようになった。


 授業で当てられるまでのあいだ、こちらは答えを持っている。持ったまま待つ。待っているあいだに、教室の中を見ることになる。


 どの子がノートを取っていないか。取っていない子が、どこで顔を上げるか。上げた先に何があるか。


 見ているだけで、こちらから何かをするわけではない。ただ、見えたものは残る。


 残ったものの置き場所が、そのころの僕にはまだ無かった。


 置き場所が無いものは、たまる。たまっているという感じもしないまま、たまる。


            *


 冬の練習は、走る量が増える。


 夏は暑いので短く区切る。冬は長く走る。土のトラックが固くなって、足の裏に来るものが強くなる。


 息が白い。前の人の息が、こちらの顔に当たるくらい近いときがある。


 汗はかく。かいたぶんが、止まった瞬間に冷たくなる。冷たくなるまでの時間が、夏より短い。


 その短さが、僕には分かりやすかった。分かりやすいものは、覚えやすい。


            *


 千尋は、そのころ水泳の進級に受かったり落ちたりしていた。


 落ちた日は、母が何も言わない。次はがんばりなさい、とも言わない。


 千尋のほうも、落ちた話をそのままする。夕飯の席で、落ちた、と言う。母は、そう、と答える。


 その二往復が、うちでいちばん短い会話だと思う。短いのに、詰まっているところが一つも無い。


            *


 僕の会話は、それより長い。


 テストの紙を出す。母が両手で持つ。しばらく見る。よかったね、と言う。引き出しに入れる。


 四つの動作がある。四つあると、そのぶん時間がかかる。


 かかっている時間が、中身の量とは関係していないことに、そのころは気づいていなかった。


            *


 母は一度も、時間の使い方を確かめなかった。


 机に向かっている時間が何分かを、母は測っていない。部屋のドアは閉めている。閉めていることを、注意されたことも無い。


 中で何をやっていても分からない。分からないのに、外側の枠だけが正確に守られている。


 守っているのは僕だ。


 守れと言われた覚えは無い。言われていないものを守るのは、言われたものを守るより難しくない。


 難しくないので、続く。続いているうちに、守っていること自体が見えなくなる。


            *


 母の一日を、僕は知らない。


 朝は僕より早く起きている。夜は僕より遅く寝る。あいだのことを、僕は見ていない。


 昼に何をしているかも知らない。買い物へ行っているのは分かる。冷蔵庫の中身が入れ替わるからだ。


 母には表が無い。母の時間を、母は誰にも見せていない。


 見せる相手がいないのか、見せる形にしていないのかは、分からない。


            *


 守らなかった日が、一度だけある。


 十二月の水曜で、部活が短い日だ。終わってから、五時二十分に家へ着いた。


 表では、そこから四十分ぶんが空いている。空いている枠が、その一箇所にだけ残っていた。


 その四十分を、僕は使わなかった。


 布団に入って、天井を見ていた。眠っていない。四十分たってから起きて、そのあとは表のとおりに動いた。


            *


 その日のことを、母は知らない。


 知らせる理由が無い。何もしていないので、報告する中身も無い。


 僕はそれを、その冬に三回やった。三回とも水曜だ。


 三回目のあとで、その枠に「読書」と書き足した。書いたのは僕だ。母の字ではない。


            *


 母はそれに気づいた。


 気づいて、こう言った。


 「あら、自分で書いたのね」


 それだけだ。何を読んでいるのかは訊かなかった。


 読んでいない、とは言わなかった。


            *


 三年間、同じ一枚が壁にある。


 紙が日に焼けて、上のほうだけ色が変わった。画鋲の穴は四つのままだ。刺し直していない。


 書き足した二文字だけが、母の字ではない。


 その二文字を、母は消さなかった。


 消さないことが許可なのかどうかを、僕は確かめていない。確かめる方法も思いつかない。


 消されていない、という状態だけが、三年間そこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。