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自慢の息子  作者: 智珠
第二部 神童

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第029話 続けます

 仮入部は四月十一日から四月二十二日までだった。


 その期間なら、いくつ回ってもいい。三つ回った子もいるし、初日から一つに決めた子もいる。決め方に決まりは無い。


 僕は初日から陸上部に行った。回らなかった。


 回るという考えが出てこない。決まっているものを、確かめに行っただけだ。


            *


 二中の陸上部は、男女合わせて三十人ほどいる。


 上級生がいて、そこへ一年生が入る。その年の一年生は十四人で、二十二日を過ぎると十一人になった。


 減った三人のうち、二人は野球部へ移った。もう一人は、どこにも行かなかったらしい。


 らしい、というのは、僕がその子の名前を覚えていないからだ。


            *


 顧問は社会科の先生だった。


 四十くらいで、背が高くない。ジャージの上下で、上着のファスナーをいつも半分だけ上げている。


 声を張らない。集合をかけるときも、手を二回たたくだけだ。たたく音が乾いていて、グラウンドの端まで届く。


            *


 最初の日に、種目を訊かれた。


 小学校で千五百をやっていました、と答えた。


 「じゃあ、長距離な」


 それで決まった。時間にして五秒くらいになる。


 小学校の記録会のタイムは訊かれない。持っていったつもりも無いのに、口に出したくなった。出さなかった。


            *


 中学のトラックは、小学校のより一周が長い。


 小学校は一周が二百メートルだった。二中は二百五十ある。同じ距離でも、周回の数が変わる。七周半から六周になった。


 六周だと、数えやすい。半端が無いというのは、それだけで違う。


 土は小学校のより固い。踏んだときの返りが速い。速いぶん、足の裏に来るものも強くなる。


            *


 練習は放課後の四時から六時までだ。


 水曜だけ早く終わる。職員会議がある日だからだと聞いた。理由を聞いたのは二年生になってからで、一年のあいだは、水曜は短い日だとだけ思っていた。


 冬は日が落ちるので、五時半で終わる。


            *


 最初の一か月は、走らせてもらえない。


 体操と、動きづくりと、流しだけだ。流しというのは、七割くらいの速さで短い距離を走ることを言う。息が上がりきらないところで止める。


 止めるのが難しい。全部出すほうが簡単だ。七割で止めておくには、自分がいまどれくらい出しているのかを、走りながら測ることになる。


 測れるようになるのに、六月までかかった。


 小学校では、速く走ることしか教わっていない。中学は、速さを置いておくことを先に教える。


 置いておく、というのは、出さないでいるということだ。出さないでいるあいだ、体のどこかに力が残る。残っている場所を、そのときは肩だと思っていた。肩ではない。


 どこなのかは、二年生の秋まで分からなかった。


            *


 長距離は、僕を入れて五人いた。


 上級生が四人と、一年生は僕だけになる。短距離のほうが人数が多い。


 三年生の一人が、走り方を一度だけ直した。腕の振りではなく、あごの位置だ。引きすぎだと言われた。


 直したあと、何も言われていない。直っているかどうかを、その人は確かめに来なかった。


 確かめに来ないのに、直したままにしている。誰も見ていないところで直っているものが、そのとき初めてできた。


            *


 靴は、小学校のときのを最初の月まで履いた。


 五月に新しいのを買った。母が一緒に行って、しゃがんで、つま先のところを親指で押した。


 「ここが当たると、あとで痛くなるから」


 同じことを言った。同じ言い方だった。


 紐の結び方は、こちらがもう覚えている。店の人に訊かなかった。母も訊かなかった。


            *


 入部届は四月二十日に出した。


 締め切りより早い。担任に渡すと、その場で受け取って、名簿に印をつけた。


 紙には、部活名と、保護者の名前と、印を押す欄がある。母の字と、母の印だ。


 書いてもらうときに、母は理由を訊かなかった。


            *


 訊かれたのは、その前の週だ。


 夕飯のあとに、部活は決めたのか、と訊かれた。


 陸上、と答えた。


 母は、そう、と言った。それから、続けるのね、とだけ言った。


            *


 続けます、と答えた。


 なんで、とは訊かれなかった。


 訊かれなかったので、僕はその答えを、いまも作っていない。


            *


 表には、月曜から金曜まで、四時から六時が入った。


 入ったぶん、塾が動いた。曜日は月曜と木曜と土曜になる。動かしたのは母だ。塾に電話をして、クラスを移してもらった。


 移った先のクラスに、知っている顔は一人もいなかった。


 電話をしている母の声が、廊下まで聞こえた。低い声だった。参観日の廊下の声とは違う。


            *


 夕飯の時刻は七時半になった。


 六時に終わって、着替えて、歩いて帰ると六時四十分になる。七時に風呂へ入って、それから食べる。


 千尋は先に食べる。母は僕と一緒に食卓につく。父はたいていいない。


 六年生の土曜と同じ形が、平日に移った。移っただけで、形は変わっていない。


            *


 航はサッカー部に入った。


 入部届を出したのは締め切りの当日だと、あとで聞いた。


 六月に、来なくなったらしい。やめたのではなく、来ない。名簿には残っている。


 それを僕は、同じクラスの子から聞いた。航からは聞いていない。廊下で会うので、訊けば答えたと思う。


 訊かなかった。


 訊かないでいるうちに、訊けなくなる。訊けなくなるまでの日数を、僕は数えていない。数えるようなものだと思っていなかった。


 いま数えようとすると、始まりの日が出てこない。終わりの日も出てこない。


            *


 六月の練習で、初めて千五百を通した。五時二十分だった。


 顧問が時計を持って、フィニッシュのところに立っている。


 四分五十八秒だった。


 小学校の記録会が五分二十八秒だ。縮んだぶんは三十秒になる。そのあいだに二年たっている。


            *


 顧問は、タイムを言っただけだった。


 「四分五十八」


 それだけだ。速いとも、遅いとも言わない。次にどうしろとも言わない。


 言われなかったので、そのまま次の練習に行った。


            *


 家では、タイムの話をしていない。


 訊かれていない。母は部活の日程を表に入れたが、記録を訊いたことは一度も無い。


 紙が出るものだけを、母は見る。部活の記録は紙にならない。


 ならないものは、家の中に存在しないのと同じになる。存在しないものについて、話が起きようがない。


 その静かさが、僕には都合がよかった。都合がよかった、と書けるようになるまでに、ずいぶんかかっている。


            *


 母は一度も、部活をやめろとは言わなかった。


 三年間、一度もだ。表から陸上の枠が消えたことも無い。


 消えたのは、僕が言ったあとになる。


            *


 走っているあいだのことを、僕はうまく書けない。


 六周のうち、二周目と三周目のことが出てこない。一周目は出てくる。ラストの一周も出てくる。


 真ん中が抜ける。抜けているのに、そこを走らなかったわけではない。


 紙をやっているときは、抜けない。どの問題で止まったかを、あとから全部たどれる。


 走っているときだけ、たどれないところができる。たどれないのに、体は前へ進んでいた。


 進んでいたことは、タイムで分かる。分かるが、それは外から見た証拠にすぎない。


            *


 部活には、決まった言い方がいくつかある。


 グラウンドに入るときは、失礼します。出るときは、ありがとうございました。先輩とすれ違うときは、おつかれさまです。


 どれも意味を考えずに言える。考えずに言えるものが増えるのは、こちらには楽だった。


 覚えるのが速い、と一度だけ言われた。言ったのは上級生で、褒めたのかどうかは分からない。


 言葉が決まっている場所は、失敗の形も決まっている。何を言えば間違いになるかが先に見える。見えると、間違えない。


            *


 部室は無い。器具庫の横で着替える。


 器具庫の中は、ハードルと、砲丸と、跳躍用のマットが入っている。マットは湿っていて、においがある。雨の日は、その中で腹筋をやった。


 においを覚えている。名前をつけられないにおいだ。


 夏は、水道で頭から水をかぶる者がいる。僕はかぶらない。かぶると、そのあとの授業までに乾かない。


 乾かなくても、部活のあとに授業は無い。無いのに、そう思った。


            *


 一年生の夏の大会は、出ていない。


 一年は原則として出ない決まりがある。応援に行く。


 三年生の千五百を、そこで初めて見た。うちの学校の三年生は、四分三十秒台で走る。


 その差がどれくらいの距離になるかを、僕はその場で計算した。計算してから、意味が無いことに気づいた。


 僕はまだ一年で、その人は三年だ。二年後の僕がどうなるかは、その数字の中に入っていない。


 入っていないものを計算する癖が、そのころにはもうついている。


 ついていることに気づいたのは、計算をやめてからになる。

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