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自慢の息子  作者: 智珠
第二部 神童

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31/105

第028話 制服のしつけ糸

```

市立第二中学校  入学のしおり  

平成二十三年度


【入学式まえに用意するもの】             用意


制服(上下)                     ○

ワイシャツ 三枚以上                 ○

通学鞄                        ○

上履き(白・かかとを踏まないもの)          ○

体操着(夏・冬) 名前を縫いつけてください      ○

運動靴                        ○

自転車通学の届出(該当者のみ)            -



【入学式の日に提出するもの】           提出した日


入学承諾書                   

三月二十四日

保健調査票                   

三月二十四日

緊急連絡カード                 

三月二十四日

給食費の口座振替依頼書             

三月二十五日



【部活動について】


本校では原則として全員が部活動に加入します。

仮入部の期間は四月十一日から四月二十二日まで。

正式な入部届は四月二十五日までに提出してください。


                         (余白に鉛筆で)

                             内申

```


 新しいシャツを買うと、まず糸を抜く。


 ポケットの口と、後ろの裾を留めてある白い糸だ。しつけ、と言うらしい。名前を知ったのは働きはじめてからで、それまでは、あの糸、と呼んでいた。


 抜かない人がいる。抜かないまま着ている人を、電車で見かける。教えるようなことではないので、見るだけになる。


 抜いた糸を、僕は捨てていない。机の上の、鍵を置くところの横にたまっている。三本ある。


 捨てる理由も、置いておく理由も無い。


 置いてあることに気づくのは、鍵を取るときだけだ。取って、出て、そのまま忘れる。


            *


 入学式の前の日に、母が制服のしつけ糸を取った。


 四月五日の夜だ。八時すぎに、母が裁縫箱を出してきた。


 取るのは肩と、上着の後ろの裾と、ズボンの裾だ。糸切りばさみで、糸の途中を一度切って、両側から引き抜く。引き抜くときに、布に細かい穴が並んで見える。しばらくすると分からなくなる。


 僕は取らなかった。取ると言われる前に、母がはさみを持ってきた。


            *


 袖のしつけだけは残った。


 残ったのではなく、残した。十二月の採寸のときに大きめにしてあるので、袖と裾は折って留めてある。


 その糸は白ではない。制服の色に合わせた紺の糸で、内側を縫ってある。表からは見えない。


 「三年生になったら伸ばすからね」


 母はそう言った。三年後の話が、その日にもう出ている。


            *


 着てみたのは、糸を取ったあとだ。


 洗面所の鏡は、腰から上しか映らない。全身を見るには、母の部屋の姿見を使う。


 肩の位置が、体より少し外にある。詰め襟ではないので、首は締まらない。ボタンは五つで、いちばん下は留めないものらしい。留めないものだと母が言った。


 立っているとき、腕をどこに置くかが決まらない。制服には、手を入れるところが少ない。


 千尋が見にきて、へんなの、と言った。何がへんかは言わない。


            *


 入学式は四月六日だった。


 九時二十分に体育館へ入る。式の開始は九時四十分で、終わりは十時五十分だ。


 卒業式と同じ体育館ではない。二中の体育館は、小学校のより広い。天井が高くて、声が上に逃げる。逃げるので、話している人の声が小さく聞こえる。


 紅白の幕は、二中のほうが新しい。皺が少ない。


 母は紺の上着を着ていた。参観日のときに着るやつだ。半年に一度しか出てこない上着が、その日も出ている。


 保護者席は後ろではなく、横だった。並びの端に座っていた。前のほうが空いていたのに、そちらへは行かない。


 新入生代表の言葉を読んだのは、僕ではない子だった。三学期の成績で決まるらしいと、あとで聞いた。決め方を、そのときの僕は知らない。


            *


 クラスは一年三組だった。


 入口の掲示で確かめる。名前が五十音順に並んでいて、僕は上のほうにある。


 航は一年一組だ。掲示の別の紙のほうにある。


 同じ小学校から来た子は、三組に八人いた。数えたのは掲示の前だ。話したことがあるのは、そのうち三人になる。


            *


 担任は女の先生だった。三十代で、国語を教える。名前は覚えている。ここには書かない。


 十一時十分から最初の学活があった。一人ずつ立って名前を言う。四十人で十二分かかった。


 僕は名前と、出身の小学校と、部活は陸上をやりたいと言った。三つだ。


 三つ言った人は少なかった。二つの人が多くて、名前だけの人もいた。


            *


 教室は二階の、いちばん階段に近いところにある。


 机は木の天板ではない。表面が固くて、鉛筆で書くと下に線が残らない。小学校の机は残った。


 窓から見えるのは、グラウンドと、その向こうの校舎だ。ハードルは片づけてあった。十月に来たときは、奥に立てかけてあった。


 チャイムの音が小学校と違う。小学校のは四つの音で、二中のは八つある。後ろの四つは前の四つの繰り返しだ。


            *


 中学は、教科ごとに先生が変わる。


 小学校では、一日のほとんどを同じ人が教えていた。中学は一時間ごとに人が入れ替わる。入れ替わるたびに、教室の空気の速さが変わる。


 速い人と、そうでない人がいる。速い人の時間は、板書を写すのが間に合わない子が出る。写せているかどうかを、その先生は見ない。


 僕は間に合う。間に合わせるやり方を、塾で先にやっている。


 やっているので、中学の一時間は、知っていることを二度目にやる時間になった。二度目は速い。速いと、余る。


 余った時間に何をするかは、まだ決まっていなかった。


 まわりを見る、というのが最初にできたことだ。


 誰が手を挙げるか。誰が当てられて答えられないか。当てられた子が答えられなかったとき、先生がどのくらい待つか。待つ長さは先生によって違う。


 いちばん長く待つのは国語の先生だった。待たれた子は、たいてい何か言う。


            *


 給食は小学校と同じ形で出る。


 配膳の当番があって、白衣を着る。白衣は袋に入っていて、週の終わりに家へ持って帰って洗う。


 母は金曜の夜にそれを洗って、アイロンをかけた。かける必要は無い。誰も見ないからだ。


 白衣にアイロンをかける家がどれくらいあるのかは知らない。訊いていない。


            *


 四月十二日の一時間目に、最初の実力テストがあった。


 五教科で、範囲は小学校の全部だ。中学の内容は入っていない。


 結果は四月十九日に出た。学年で一位だった。二百四十人中の一位になる。


 紙は一枚で、順位と、点と、教科ごとの平均が印字してある。下のほうに四角い枠があって、中に何も入っていない。担任が何か書く欄らしい。三年間で、そこに字が入ったことは一度もない。


            *


 母はその紙を、両手で持った。


 持って、しばらく見て、それから言った。


 「よかったね」


 六文字だ。六年生の四月に聞いたのと同じ言い方だった。数え直したわけではない。同じだと分かった。


            *


 紙は引き出しに入る。


 小学校のときの引き出しは、家の机だ。中学の机も同じ場所にある。買い替えていない。


 答案の束の上に重なる。いちばん下には別のものが入っている。動かしていない。


            *


 母は中学の時間割を写した。


 配られた紙をそのまま貼るのではなく、自分で書き直す。理由は言わない。書き直すと、母の字になる。


 台所の壁に貼る位置は、小学校のときと同じだ。冷蔵庫の横で、画鋲の数も、刺す順番も変わらない。


 新しい表には、部活の時間がまだ入っていない。仮入部の期間が四月十一日からなので、そこは空けてある。


 空けてある枠を見たのは、久しぶりだった。


 九時半をすぎてから、台所でペンの音がした。表を書いたあとに、まだ書いている。


 紙をめくる音がする。表は一枚しかない。


            *


 通学路は途中まで小学校と同じだ。


 側溝の蓋を数えた道を通って、そこから右へ行かずに、まっすぐ進む。まっすぐ行くと坂になる。上りだ。


 坂の途中に自動販売機が並んでいる。片方は電気がついていない。ついていないほうにも、まだ商品が入っている。


 その先に踏切がある。書道の帰りに一度止まったところとは別の線だ。こちらは朝、必ず一回は待つ。


 待つのは七時二十六分ごろだ。待っているあいだ、制服の子が横に増えていく。増えるのが同じ場所で、同じ順番だった。


 遮断機が上がると、みんな同じ速さで歩きだす。速い子が前に出るのは、坂に入ってからになる。


            *


 千尋は三年生になった。


 朝の出る時刻が違うので、玄関で会う日と会わない日がある。会う日は、行ってきます、を二回言うことになる。千尋のほうが先に言う。


 千尋の机の前の壁には、まだ何も貼っていない。三年生になっても、そこは変わらない。


 千尋は水泳を習いはじめた。習いたいと自分で言ったらしい。母は、いいわよ、と答えたそうだ。


 そうだ、というのは、僕がその場にいなかったからだ。塾の日だった。


 行ってみる? とは訊かれていない。訊かれる前に、千尋のほうから言っている。


            *


 母は一度も、中学で一番を取れとは言わなかった。


 小学校のときと同じだ。目標を紙に書かせたこともない。書かせないので、僕が自分で決める。


 決めたと言えるほど、はっきり決めた覚えは無い。


            *


 航とは、入学式の日に一度だけ話した。


 体育館を出たところで、掲示のほうを指した。


 「別だな」


 うん、と答えた。


 「まあ、いるし」


 いる、というのは、同じ学校にいるという意味だと思う。訊いていない。


 その日から三年間、僕たちは一度も同じクラスにならなかった。


 同じ学校にいる、というのが、そのあいだの関係の名前になる。名前がついているだけで、中身は少しずつ減っていった。


 減っていることに気づくのは、減りきってからになる。


            *


 四月八日の朝、七時十二分に家を出た。


 小学校のときと同じ時刻だ。


 小学校までは八分で、二中までは十四分かかる。同じ時刻に出ると、六分ぶん遅く着く計算になる。


 それでも母は時刻を変えなかった。変えなくても間に合う。


 間に合うのに、僕は一度も遅らせなかった。

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