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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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第027話 ここからが本番だからね

 卒業式は三月十八日だった。


 九時二十分に体育館へ入る。式の開始は九時四十分。終わりは十一時十分の予定で、実際は十一時十六分だった。


 六分の遅れは、証書を渡す速さで出る。一人あたり二秒ずつ遅れると、四十人で八十秒だ。三クラスある。


            *


 服は母が用意した。


 紺のブレザーと、灰色のズボンと、白いシャツ。ネクタイは無い。学校の指定でそうなっている。


 前の日の夜に、シャツにアイロンがかかっていた。襟の内側までかけてある。内側は誰にも見えない。


 朝、玄関で母が襟を直した。直す必要は無かったと思う。触っただけかもしれない。


            *


 体育館は寒い。


 三月の午前で、暖房は入っていない。窓は上のほうだけ開けてある。開いているのは決まりで、寒いかどうかとは別の話だ。


 椅子はパイプ椅子で、座ると冷たさが太ももに来る。前の子の背中が、少し丸まっていた。


 紅白の幕は、右端の一枚だけ吊り方が違う。皺の入り方が他と違って見えた。


 壇上の花は、白と黄色だ。前の日に業者が入れたものらしい。式が終わると、その日のうちに引き取られていく。


 置いてある時間より、運んでいる時間のほうが長いのではないかと思った。


            *


 伴奏は同じ学年の子が弾いた。


 六年生から一人選ばれる。二学期に決まった。音楽の先生が声をかけて回ったらしい。


 僕は三月にやめている。声はかからなかった。


 弾けたかどうかは分からない。指はもう戻らない。小指の付け根のところが柔らかくなってから、二年たっていた。


            *


 在校生は五年生だけが入る。四年生から下は教室にいる。


 千尋は二年生なので、体育館にいない。式のあいだ、教室で自習をしていたらしい。何をやっていたかは訊いていない。


 保護者席は後ろの三十列だ。前から埋まる。母は前から四列目にいた。参観のときは壁ぎわに寄るのに、この日は前に座っている。


 座る場所を、母はどこかで決めてきたのだと思う。


            *


 呼名は名前の順だ。


 高梨、と呼ばれて、はい、と返す。返事の大きさは練習で決まっている。大きすぎても直される。


 証書は、両手で受け取って、三歩下がって、礼をする。三歩は歩幅で決まっていない。床に線が貼ってある。


 線を踏まないように下がった。踏んでも何も起きない。それでも踏まなかった。


            *


 証書は思ったより軽かった。


 紙は厚い。筒はもっと軽い。中で少し動く。動かないように、指で押さえた。


 押さえながら、席まで戻る。戻るときに、後ろのほうを一度見た。誰かを探したのではない。目が動いた。


            *


 歌は二曲あった。


 どちらの曲だったかを、僕は覚えていない。歌詞も出てこない。


 伴奏の子が、間奏のところで一度だけ止まりかけたことは覚えている。止まりかけて、続いた。


 止まりかけたところで、体育館の音が変わった。四百人が同じところで息を止めると、そういう音になる。


 変わったのは一拍だけだ。すぐ戻った。戻ったあと、僕は歌っていなかった。口は動かしていたと思う。


            *


 父は来た。


 式の途中からで、後ろのほうに立っていた。上着を着たままだ。ネクタイは仕事のもので、色が濃い。


 写真は撮っていない。カメラを持っていなかった。


 母が父に気づいたのは、僕より遅かったと思う。母は前を向いていた。


            *


 母は泣かなかった。


 運動会では泣いた。卒業式では泣かない。


 理由は訊いていない。


 運動会のときの母は、僕が走ったあとだった。卒業式の母は、僕が証書を受け取ったあとにも、そのままの顔をしている。


 証書は、走って取ったものではない。六年いれば全員がもらう。全員がもらうものでは、母は泣かないのかもしれない。


 そう考えたのは、ずっとあとだ。その日は、泣かないことに気づいただけで終わった。


            *


 十一時三十分に教室へ戻って、最後の帰りの会があった。


 先生が一人ずつに何か言う。名前を呼んで、一言だけ。全員ぶんで十五分かかった。


 僕に言われたのは、よくやりました、だ。


 航に言われたのは、給食を残さなかったな、だった。教室が笑った。航も笑っていた。


 笑いが起きたのは、その一回だけだった。


            *


 校門で写真を撮った。


 母と、千尋と、僕の三人だ。父は撮る側にいた。


 証書の筒を、僕は右手で持った。持ち方を一度直された。まっすぐ持ちなさい、と言われた。


 まっすぐにすると、腕が体から少し離れる。離れた形で撮られた。


 千尋は左端で、こちらを見ずに笑っていた。何を見ていたのかは分からない。


            *


 航とも撮った。


 航の親は来ていない。撮るのを、うちの父がやった。


 「二人並んで」


 並んだ。肩は触れていない。十センチくらい空いていたと思う。


            *


 その写真は、いまも持っている。


 航は笑っている。僕は笑っていない。口が閉じている。


 撮られるときに笑うという発想が、そのころの僕には無かった。笑えと言われれば笑ったと思う。言われなかった。


            *


 担任に挨拶をした。


 母が先に頭を下げて、僕がそのあとに下げた。順番は前の日に決まっていない。決まっていないのに、そうなる。


 先生は、中学でもがんばってね、と言った。


 母は、こちらこそお世話になりました、と言った。それから、中学の話を少しした。二中の名前が出た。先生が、ああ、あそこは、と言いかけて、そこで止めた。


 止めた先が何だったのかは、いまも分からない。


 母はそこを訊き返さなかった。訊き返せば分かったはずだ。訊き返さない、というのを、母はよくやる。


 その場で訊かずに、あとで別のところから調べる。調べた結果だけが、しばらくして家に出てくる。


            *


 帰りは航と途中まで一緒だった。


 証書の筒を、航は鞄に入れずに手で持っている。振り回してはいない。持っているだけだ。


 「これ、なに入れんの」


 なにも入れない、と答えた。


 「じゃあ、なんでついてんの」


 答えられなかった。筒は、証書のためについている。証書のためについているものに、ほかの用が無いことを、そのとき初めて考えた。


 航は通路のところで、じゃあな、と言った。四月にまた会う。会うのに、じゃあな、と言う。


            *


 昼はちらし寿司だった。一時に卓に出た。


 母が朝のうちに作った。錦糸卵が上に敷いてあって、そのうえに絹さやが並べてある。並べ方に規則がある。等間隔ではない。三つずつ、間を空けて置いてあった。


 汁は蛤だった。ふだんは出ない。


 千尋が絹さやを三つ食べて、あとを残した。母は何も言わなかった。


 父は昼を食べて、二時に出た。仕事に戻ると言った。出るときに、僕の頭には手を置かなかった。運動会のときは置いた。


            *


 午後は何もしなかった。


 表には、その日だけ何も書いていない。空いている枠を見たのは、四年生の夏以来だ。


 空いているのに、僕は机に向かった。中学の予習用の問題集が、三日前から置いてある。


 やらなくていいとは言われていない。やれとも言われていない。


 二十枚ある。十二枚やった。


 制服は、二階の部屋に掛けてある。しつけ糸はまだ取っていない。取るのは入学式の前の日だと母が言った。


 鞄も、靴も、体操着も、そろっている。名前を書くところは全部書いてある。書いたのは母だ。


 体操着の名前は、布に書いて縫いつけてある。直接書くと洗ううちに薄くなるからだ。縫い目は表から見えない。


 その布を、僕は三年間はがさなかった。はがす必要が無かった。


            *


 母は一度も、この日のために何かをしろとは言わなかった。


 卒業式の練習のことも、家では一度も話に出ていない。返事の大きさを直されたことも、言っていない。


            *


 六年間で、母が学校に来た回数を、僕は数えている。


 参観が十二回。懇談と運動会と学芸会が、それぞれ六回ずつ。個人面談が十二回。役員の集まりは、たぶんそれ以上になる。


 一度も休んでいない。父の実家に行く日と重なった年も、こちらを先にした。


 数えたのは、六年生の終わりだ。数えて、その数を誰にも言っていない。


 言うところが無い。数えたものを置く場所を、僕はまだ持っていなかった。


            *


 九時をすぎてから、台所でペンの音が長く続いた。


 途中で二回止まった。止まっている時間が、書いている時間より長い箇所があった。


 何を書いていたのかを、僕は知らない。廊下には出ていない。


            *


 夕方に、母が証書の筒を棚の上に置いた。


 台所の、食器棚の上だ。手を伸ばさないと届かない高さになる。


 置く前に、母は棚の上を布巾で一度拭いた。埃があったからだと思う。拭いてから置いた。


 置いてから、こちらを向かずに言った。


            *


 「ここからが本番だからね」


            *


 本番って何の、とは訊かなかった。


 うん、と答えた。


 筒は、棚の上に置かれたままになった。中を見たのは、十年以上あとだ。

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