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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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第026話 将来の夢(清書)

 二月十日の三時間目に、卒業文集の原稿用紙が配られた。


 四百字詰めが一枚。テーマは「将来の夢」で、全員が同じテーマだ。締め切りは二月二十四日。


 書き方の見本が黒板に貼られた。書き出しは「ぼくの/わたしの将来の夢は」で始めること。段落は三つか四つにすること。


 名前は最後に書くのではなく、右上に先に書く。書いてから始める。


            *


 書く時間は、国語の授業のうちに二回とられた。


 一回目の四十五分で、僕は名前と題だけ書いた。あとは白いままにした。


 まわりは書いていた。前の席の子は、二回目の途中で書き終えて、そのあと消しゴムで直していた。


 鉛筆の音が四十人ぶんある。書いている音と、止まっている音は違う。止まっている人の数は、音で分かる。


 その時間、止まっていたのは僕だけだった。


            *


 僕は三日、何も書かなかった。


 書けなかったのではない。書きはじめる前に、決めることが決まらなかった。


 将来の夢が何かを、そのとき僕は持っていない。持っていないものについて四百字を書く方法を、誰も教えていなかった。


 持っていないと書けばいい、という考えは、四日目まで出てこなかった。書くのは持っている人だと思っていたからだ。


            *


 六歳のときに、一度答えたことがある。


 親戚が集まった席で、大きくなったら何になるのかと訊かれた。エレベーターの中に入っていく人、と答えた。


 あれは答えだった。訂正されて、答えでなくなった。


 訂正されたことは覚えている。何と訂正されたかも覚えている。


 そのあと、僕は同じ質問に、二度と自分の言葉で答えていない。


            *


 四日目の夜、八時から下書きを書いた。


 書き出しは見本のとおりにした。そのあとは、思ったとおりに書いた。


 まだ決まっていません、と書いた。やりたいことがないわけではありません、とも入れた。ただ、はっきりしていません、と続けた。


 六年生になっていくつかやめたことも書いた。ピアノと書道だ。やめたのは自分で決めました、と書いた。


            *


 そのあとに、一行書いた。


 書いてから、線を引いて消した。


 消したのは、母に見せる前だ。


            *


 その一行は、書くのに時間がかからなかった。手が止まらずに最後まで行った。


 行ってから、読み返した。読み返して、線を引いた。


 線は二本引いた。一本目を引いたあとに、まだ読めたからだ。


 二本目を引いても読める。三本目は引かなかった。


            *


 消し方は、鉛筆で二重線を引くやり方にした。消しゴムを使わなかった。


 消しゴムで消すと、あとが残る。二重線なら、そこに何かがあったことだけが残る。


 どちらが残るかを、そのとき選んだ。


            *


 下書きを母に見せた。


 母は座卓で読んだ。読んでいるあいだ、二回うなずいた。うなずいたのは、はじめのほうだ。


 読み終わって、しばらく黙っていた。それから、こう言った。


 「よく書けてるけど、これだと読む人が困っちゃうかもね」


            *


 困る、というのが分からなかった。


 文集を読む人が困る、という意味だ。書いた本人が困るのではない。


 困らせないほうがいい。それは分かる。


 分かるので、直されることに反対しなかった。反対する材料が、こちらに無い。


 母の言っていることは、はじめから終わりまで筋が通っていた。通っていない話なら、たぶん何か言えた。


            *


 母は消したところに触れなかった。


 二重線のところを、指でなぞりもしない。目は通ったはずだ。位置が真ん中にある。


 読んだのに触れないのか、読んで触れないほうがいいと決めたのか、そこは分からない。訊けば答えたと思う。


 訊かなかったのは、答えが返ってくるのがこわかったからではない。訊くという動作が、そのとき手元に無かった。


 何も言われなかったので、こちらも言わなかった。


            *


 母が直したのは、三箇所だ。


 まだ決まっていません、を、人の役に立つ仕事につくことです、に変えた。


 はっきりしていません、を消して、そのぶんに、目標を持ってこつこつと努力を続けることが大切だと思います、を入れた。


 最後に、六年間の感謝を書く段落を足した。先生と友だちのことだ。


            *


 「感謝は入れておいたほうがいいのよ」


 母はそう言った。理由は言わない。


 人の役に立つ仕事、という言い方を、母がどこで見たのかは分からない。母の言葉ではない気がした。


 どこかで読んだものを、正しい形として持ってきている。母はそういうことをする人だ。悪いことだとは、そのときも思っていない。


 いまも、悪いこととは書けない。母は正しい形を探して、見つけて、渡した。渡されたものは、たしかに正しい形だった。


            *


 直すあいだ、母は下書きを持たなかった。座卓に置いたまま、上から見て言う。


 言い方は、こう書きなさい、ではない。こう書いたほうが伝わるわよ、だ。


 伝わる、という言葉が三回出た。三回とも、相手は読む人のことだった。


            *


 直しは、口で言われた。母は僕の紙に書き込まなかった。


 書き込まないので、僕が自分で書き直したことになる。


 新しい紙をもらって、清書した。九時十分から始めて、四十七分かかった。


            *


 清書の字は、下書きより整っている。


 書く内容が決まっていると、字がそろう。迷いが手に出ない。


 枡目からはみ出したところは一つも無かった。書き直しも無い。


            *


 清書を見せたとき、母は下書きと並べなかった。


 並べれば、どこが変わったかが分かる。母は並べない。清書だけを見た。


 「うん、これでいい」


 十時二分だった。その時刻を覚えているのは、寝る時刻を三十二分すぎていたからだ。


            *


 提出したのは二月二十二日だ。締め切りの二日前になる。朝の会の前、八時二十分に職員室へ持っていった。


 職員室は八時二十分でも人が少ない。ストーブが一つついていて、その前に誰もいない。


 先生は受け取って、その場で目を通した。それから、いいね、と言った。


 いいね、と言われたのは、その一回だけだ。書道では六年半、一度も言われていない。


            *


 千尋も同じころ、学校で作文を書いていた。


 二年生の題は「いちばんたのしかったこと」だ。千尋は運動会のことを書いた。玉入れの数まで書いてある。白が三十四で、赤が二十九だ。


 母はそれを読んで、声を出して笑う。直さなかった。


 直す必要が無かったのだと思う。読む人が困る話ではない。


 千尋の作文は、教室の後ろに貼られた。文集には載らない。貼るほうが先に無くなる。


            *


 文集は三月十四日にできた。帰りの会で配られる。三時十分だった。


 厚さは一センチくらいある。表紙は水色で、学校の絵が描いてあった。描いたのは同じ学年の子だ。名前が下に小さく入っている。


 僕のは名前の順で、そのページの上から二番目にある。


            *


 航のを読んだ。


 「ぼくの将来の夢は、車を直す人になることです」


 そのあとに、理由が書いてある。近所の工場を見たことがあって、そこの人が、走らない車を走るようにしたのを見た、という話だった。


 どの車の、どこが壊れていたかまで書いてある。四百字のほとんどが、その話だった。


 夢の話は、はじめと終わりの二行だけだ。


            *


 航の文には、感謝が入っていない。


 先生のことも、友だちのことも書いていない。読む人が困るかどうかは、頭に無かったはずだ。


 僕はそれを二回読んだ。


 ほかの子のも読んだ。四十人ぶんある。感謝が入っているのは二十六人だった。数えたのは、家に帰ってからだ。


 医者と書いた子がいる。パティシエもサッカー選手もいる。まだ決まっていませんと書いた子は、一人もいなかった。


            *


 文集は家に持って帰った。


 母は自分のぶんとして、もう一冊もらっている。学校が家庭用に配ったものだ。


 母は僕のページを開いて読んだ。読んでから、いいじゃない、と言った。


 言われたことは合っている。書いてあることは正しい。正しいものを、正しいと言われた。


 そのとき、こちらの体はどこも動かなかった。耳も熱くならない。手も冷たくならない。


 何も起きないというのは、そのころには珍しくなっていた。珍しくないことのほうが、あとから見ると珍しい。


            *


 下書きは捨てなかった。


 捨てる場面が来ない。机の引き出しに入れて、そのままになった。答案の束の上だ。いちばん下ではない。


 母は一度も、下書きを見せろとは言わなかった。清書を見て、それで終わっている。


            *


 その一行を、僕はいまでも書ける。


 消したのは十二年前で、二重線の下の字は、いまも読める濃さで残っている。


 書けるのに、ここにも書かない。


 書かない理由は、うまく言えない。書けば話が片づくのは分かっている。片づくものにしたくない、というのとも少し違う。


 言えないまま、ここは空けておく。

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