第020話 千五百メートル
十一月二十三日に市の記録会があった。
会場は市の陸上競技場だ。トラックが六コースあって、内側の一コースだけ、白線が引き直してある。前の週に降った雨で消えたらしい。
僕は千五百メートルに出た。三周と、少しだ。
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ゼッケンは前の日の夜に、母が縫った。
四隅を縫う。玉止めを二回する。糸は白で、シャツの色に合わせてある。
縫っているあいだ、母は何も言わなかった。テレビもついていない。針が布を抜ける音がする。抜けるときと、引き切るときで、音が違う。
縫い終わってから、両手で持って、明かりのほうへ向けた。番号がまっすぐかどうかを見ている。一度だけ、右上をほどいて縫い直した。
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当日は七時十分の電車に乗った。
千尋は家に置いてきた。父は仕事だ。母と二人で行った。母と二人で電車に乗るのは、久しぶりだった。
母はゼッケンの入った袋を膝の上に置いて、片手を上に添えていた。乗り換えのときも、鞄より先にそちらを持ち直す。
八時五十分に競技場に着いた。門のところで受付をして、番号のついた紙をもらう。
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僕が持っている数は、二種類ある。
一つは、上か下かが決まっている数だ。点数、順位、級、進度。この数は、出た瞬間に良いか悪いかが決まる。決まったあとで、母に見せる。
もう一つは、ただの数だ。側溝の蓋が十七枚。仏壇の鈴が十二。廊下の板の三枚目と七枚目。
二つ目のほうは、誰にも見せない。見せる場所が無い。
見せる場所が無いから消えるかというと、消えない。むしろこちらのほうが残る。点数は、次の点数が出ると前のが薄くなる。蓋の枚数は薄くならない。
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招集は九時四十分だった。
係の人が名前を読む。返事をして、番号のところへ並ぶ。僕は十二人中の七番目に並んだ。
並んでいるあいだ、前の子のふくらはぎを見ていた。僕のよりも太い。横から見ると、うしろに出ている幅が違う。
スタートは十時二分だ。二分というのが、その日の進行表に書いてある。ちょうどの時刻ではないところが、少し気になった。
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スタンドには親が入っている。
声を出す人が多い。名前を呼ぶ人と、番号を呼ぶ人がいる。行け、とだけ言う人もいる。
声は、走っている側にはあまり届かない。届くのは、カーブの外側を通るときの一瞬だけだ。
スタートの前に、靴紐を結び直した。店で母が教わってきた結び方だ。二回引いて、輪を小さくする。
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ピストルが鳴った。
音が二つ聞こえる。撃った音と、向かいのスタンドから返ってくる音だ。返ってくるほうが少し遅い。
最初の百メートルで、僕は五番目になった。
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一周目は数えていた。
カーブの入りで一人抜いて、四番目になる。息はまだ上がっていない。腕の振りを、練習のときと同じ幅にする。
二周目の途中から、数えるのをやめた。
やめようと思ったのではない。数が出てこなくなった。
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足の音が、途中から自分のものだけになる。
前の子の足音が消える。後ろの音も消える。聞こえているのは、自分の足と、自分の息だけだ。
目に入るのは、前の子の背中の番号と、白線と、その先の芝生の色だ。芝は冬に入るところで、青と茶色が混ざっている。
風は向かい側の直線でだけ当たる。当たると、シャツが体から離れる。
考えていることが無い。
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これは三度目だ。
航の家の三時間と、練習のあいだと、ここ。三度とも、次のことが無い。
紙をやっているときは次の問題がある。ピアノには次の小節がある。走っているときは、次が足の下にしかない。
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最後の直線で、一人抜いた。
抜いたのは覚えている。誰を抜いたのかを覚えていない。番号も、背の高さも出てこない。
ゴールの白い線は、思っていたよりも太かった。
越えてから、二十歩くらい走って止まった。止まると、そこから息が変わる。
口の中に鉄の味がする。唾が出ない。しゃがむと戻しそうになったので、立った。立っていると、耳のうしろで脈が鳴っているのが分かる。
係の人が肩に触って、こっち、と言った。その手が冷たかった。誘導されるほうへ歩くと、足がうまく前に出ない。
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三位だった。
タイムは五分二十八秒。掲示が出たのは十時三十分で、走り終わってから二十分近くかかった。
掲示板は本部のテントの横にある。紙が上から順に貼られて、風で下の端がめくれる。押さえる係の人が一人いて、めくれるたびに手で押さえた。
二位の子との差は九秒ある。追いつける差ではない。九秒というのは、千五百では百メートルぶんくらいになる。
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その数字を見て、僕は何も判定しなかった。
五分二十八秒が良いのか悪いのかは、比べる相手を持ってこないと決まらない。持ってこなければ、ただの五分二十八秒だ。
持ってこなくてもいい、というのが、そのときは分からなかった。分からないまま、持ってこなかった。
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母はゴールの反対側にいた。
走っているあいだ、手を振らなかった。あとで訊いたら、そこがいちばん人が少なかったからだと言った。
終わってから来た。タオルを出して、僕の肩に掛けて、それから水筒を出した。中は麦茶で、氷が二つ残っていた。
「おつかれさま」
それだけだった。
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母は一度も、順位を訊かなかった。
その日だけは訊かない。掲示板を一緒に見に行って、そこで初めて三位だと知った。
知っても、母は何も言わない。掲示板の前で、僕の肩からずれたタオルを直しただけだ。
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見に来てくれてありがとう、とは言わなかった。
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スタンドで、母は誰とも話さなかった。
この会場に、知っている人がいない。学校の参観日とは違う。
話す相手がいないところにいる母を見たのは、そのときが初めてだった。母は膝の上に袋を置いて、まっすぐ前を見ていた。
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記録証をもらった。
紙が薄い。名前と、種目と、記録と、順位が印字してある。角の一つに、係の人の指のあとがついていた。青いインクだ。
裏は白い。何も書いていない。母は裏を見てから、表に戻した。
帰りは十二時四十分の電車に乗った。家に着いたのは一時二十分だ。
電車で、母が記録証を二回見た。二回目のときに、少し笑っていた。笑ってから、袋に戻して、袋の口を折った。
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家に帰ると、母はそれを冷蔵庫に貼った。
千尋の絵の隣だ。マグネットを二つ使って、上を留めた。留めてから、少し下がって位置を見た。
答案は貼らない。記録証は貼った。
千尋がそれを見て、なにこれ、と言う。走ったやつだ、と答えた。千尋は、ふうん、と言って、自分の絵のほうを直した。曲がっていたわけではない。
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貼ってあったのは十一日だ。
千尋の絵と同じ日数だった。偶然だと思う。
はがしたあとは、押入れの箱ではなく、僕の机の引き出しに入った。答案の束の上だ。母が入れたのか僕が入れたのかを、覚えていない。
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ストップウォッチは、その次の週に母が買ってきた。
黒くて、ボタンが三つある。首から下げる紐がついていて、紐だけ青い。裏に電池の蓋があって、小さいねじで留めてある。
「はかってみたら」
僕はそれを、走るときには使わなかった。走っているあいだは押せない。
使ったのは、家でだ。紙をやる時間を計った。十枚で何分かかるかを、その冬のあいだ毎日つけた。
母はそれを見て、いいことだと言った。
紙をやる時間は、計りはじめてから短くなった。速くやると、字が濃くなる。濃くなった字を、母は何も言わずに丸で囲む。
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二月に、体育の先生が僕を呼んだ。
六年生の大会の話だった。夏に県の記録会があって、そこに出るなら冬のあいだも走っておいたほうがいい、と言われた。
考えます、と答えた。
先生は、そうか、と言った。走るのが好きかとは、その日は訊かない。前に訊いて、たぶん、と答えられているからだ。
訊かれなかったので、僕もそれ以上は考えなかった。夏の話は、まだ半年先にある。
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冬のグラウンドは固い。
七時四十分に学校へ着いて、始業までのあいだに走る日があった。その時間の土は、踏むと固い音がする。足の裏が痛い。昼にはゆるむ。ゆるんだところを走ると、靴の底の溝に土が入る。
入った土は、玄関で靴をたたくと落ちる。落とした土が、玄関のたたきに小さく残る。母がそれを毎日はいた。
はいているのを見たのは二回だけで、あとは、朝になると無くなっている。
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その冬、僕は自分のタイムを計っていない。
計るものは家にあった。首から下げる紐がついているやつだ。持っていくことはできた。
持っていかなかった理由を、僕はいまも書けない。
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ゴールしてから、膝に手をついた。
土に汗が落ちて、丸い跡ができた。一つ、二つ、三つ。
四つ目は数えなかった。




