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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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22/23

第020話 千五百メートル

 十一月二十三日に市の記録会があった。


 会場は市の陸上競技場だ。トラックが六コースあって、内側の一コースだけ、白線が引き直してある。前の週に降った雨で消えたらしい。


 僕は千五百メートルに出た。三周と、少しだ。


            *


 ゼッケンは前の日の夜に、母が縫った。


 四隅を縫う。玉止めを二回する。糸は白で、シャツの色に合わせてある。


 縫っているあいだ、母は何も言わなかった。テレビもついていない。針が布を抜ける音がする。抜けるときと、引き切るときで、音が違う。


 縫い終わってから、両手で持って、明かりのほうへ向けた。番号がまっすぐかどうかを見ている。一度だけ、右上をほどいて縫い直した。


            *


 当日は七時十分の電車に乗った。


 千尋は家に置いてきた。父は仕事だ。母と二人で行った。母と二人で電車に乗るのは、久しぶりだった。


 母はゼッケンの入った袋を膝の上に置いて、片手を上に添えていた。乗り換えのときも、鞄より先にそちらを持ち直す。


 八時五十分に競技場に着いた。門のところで受付をして、番号のついた紙をもらう。


            *


 僕が持っている数は、二種類ある。


 一つは、上か下かが決まっている数だ。点数、順位、級、進度。この数は、出た瞬間に良いか悪いかが決まる。決まったあとで、母に見せる。


 もう一つは、ただの数だ。側溝の蓋が十七枚。仏壇の鈴が十二。廊下の板の三枚目と七枚目。


 二つ目のほうは、誰にも見せない。見せる場所が無い。


 見せる場所が無いから消えるかというと、消えない。むしろこちらのほうが残る。点数は、次の点数が出ると前のが薄くなる。蓋の枚数は薄くならない。


            *


 招集は九時四十分だった。


 係の人が名前を読む。返事をして、番号のところへ並ぶ。僕は十二人中の七番目に並んだ。


 並んでいるあいだ、前の子のふくらはぎを見ていた。僕のよりも太い。横から見ると、うしろに出ている幅が違う。


 スタートは十時二分だ。二分というのが、その日の進行表に書いてある。ちょうどの時刻ではないところが、少し気になった。


            *


 スタンドには親が入っている。


 声を出す人が多い。名前を呼ぶ人と、番号を呼ぶ人がいる。行け、とだけ言う人もいる。


 声は、走っている側にはあまり届かない。届くのは、カーブの外側を通るときの一瞬だけだ。


 スタートの前に、靴紐を結び直した。店で母が教わってきた結び方だ。二回引いて、輪を小さくする。


            *


 ピストルが鳴った。


 音が二つ聞こえる。撃った音と、向かいのスタンドから返ってくる音だ。返ってくるほうが少し遅い。


 最初の百メートルで、僕は五番目になった。


            *


 一周目は数えていた。


 カーブの入りで一人抜いて、四番目になる。息はまだ上がっていない。腕の振りを、練習のときと同じ幅にする。


 二周目の途中から、数えるのをやめた。


 やめようと思ったのではない。数が出てこなくなった。


            *


 足の音が、途中から自分のものだけになる。


 前の子の足音が消える。後ろの音も消える。聞こえているのは、自分の足と、自分の息だけだ。


 目に入るのは、前の子の背中の番号と、白線と、その先の芝生の色だ。芝は冬に入るところで、青と茶色が混ざっている。


 風は向かい側の直線でだけ当たる。当たると、シャツが体から離れる。


 考えていることが無い。


            *


 これは三度目だ。


 航の家の三時間と、練習のあいだと、ここ。三度とも、次のことが無い。


 紙をやっているときは次の問題がある。ピアノには次の小節がある。走っているときは、次が足の下にしかない。


            *


 最後の直線で、一人抜いた。


 抜いたのは覚えている。誰を抜いたのかを覚えていない。番号も、背の高さも出てこない。


 ゴールの白い線は、思っていたよりも太かった。


 越えてから、二十歩くらい走って止まった。止まると、そこから息が変わる。


 口の中に鉄の味がする。唾が出ない。しゃがむと戻しそうになったので、立った。立っていると、耳のうしろで脈が鳴っているのが分かる。


 係の人が肩に触って、こっち、と言った。その手が冷たかった。誘導されるほうへ歩くと、足がうまく前に出ない。


            *


 三位だった。


 タイムは五分二十八秒。掲示が出たのは十時三十分で、走り終わってから二十分近くかかった。


 掲示板は本部のテントの横にある。紙が上から順に貼られて、風で下の端がめくれる。押さえる係の人が一人いて、めくれるたびに手で押さえた。


 二位の子との差は九秒ある。追いつける差ではない。九秒というのは、千五百では百メートルぶんくらいになる。


            *


 その数字を見て、僕は何も判定しなかった。


 五分二十八秒が良いのか悪いのかは、比べる相手を持ってこないと決まらない。持ってこなければ、ただの五分二十八秒だ。


 持ってこなくてもいい、というのが、そのときは分からなかった。分からないまま、持ってこなかった。


            *


 母はゴールの反対側にいた。


 走っているあいだ、手を振らなかった。あとで訊いたら、そこがいちばん人が少なかったからだと言った。


 終わってから来た。タオルを出して、僕の肩に掛けて、それから水筒を出した。中は麦茶で、氷が二つ残っていた。


 「おつかれさま」


 それだけだった。


            *


 母は一度も、順位を訊かなかった。


 その日だけは訊かない。掲示板を一緒に見に行って、そこで初めて三位だと知った。


 知っても、母は何も言わない。掲示板の前で、僕の肩からずれたタオルを直しただけだ。


            *


 見に来てくれてありがとう、とは言わなかった。


            *


 スタンドで、母は誰とも話さなかった。


 この会場に、知っている人がいない。学校の参観日とは違う。


 話す相手がいないところにいる母を見たのは、そのときが初めてだった。母は膝の上に袋を置いて、まっすぐ前を見ていた。


            *


 記録証をもらった。


 紙が薄い。名前と、種目と、記録と、順位が印字してある。角の一つに、係の人の指のあとがついていた。青いインクだ。


 裏は白い。何も書いていない。母は裏を見てから、表に戻した。


 帰りは十二時四十分の電車に乗った。家に着いたのは一時二十分だ。


 電車で、母が記録証を二回見た。二回目のときに、少し笑っていた。笑ってから、袋に戻して、袋の口を折った。


            *


 家に帰ると、母はそれを冷蔵庫に貼った。


 千尋の絵の隣だ。マグネットを二つ使って、上を留めた。留めてから、少し下がって位置を見た。


 答案は貼らない。記録証は貼った。


 千尋がそれを見て、なにこれ、と言う。走ったやつだ、と答えた。千尋は、ふうん、と言って、自分の絵のほうを直した。曲がっていたわけではない。


            *


 貼ってあったのは十一日だ。


 千尋の絵と同じ日数だった。偶然だと思う。


 はがしたあとは、押入れの箱ではなく、僕の机の引き出しに入った。答案の束の上だ。母が入れたのか僕が入れたのかを、覚えていない。


            *


 ストップウォッチは、その次の週に母が買ってきた。


 黒くて、ボタンが三つある。首から下げる紐がついていて、紐だけ青い。裏に電池の蓋があって、小さいねじで留めてある。


 「はかってみたら」


 僕はそれを、走るときには使わなかった。走っているあいだは押せない。


 使ったのは、家でだ。紙をやる時間を計った。十枚で何分かかるかを、その冬のあいだ毎日つけた。


 母はそれを見て、いいことだと言った。


 紙をやる時間は、計りはじめてから短くなった。速くやると、字が濃くなる。濃くなった字を、母は何も言わずに丸で囲む。


            *


 二月に、体育の先生が僕を呼んだ。


 六年生の大会の話だった。夏に県の記録会があって、そこに出るなら冬のあいだも走っておいたほうがいい、と言われた。


 考えます、と答えた。


 先生は、そうか、と言った。走るのが好きかとは、その日は訊かない。前に訊いて、たぶん、と答えられているからだ。


 訊かれなかったので、僕もそれ以上は考えなかった。夏の話は、まだ半年先にある。


            *


 冬のグラウンドは固い。


 七時四十分に学校へ着いて、始業までのあいだに走る日があった。その時間の土は、踏むと固い音がする。足の裏が痛い。昼にはゆるむ。ゆるんだところを走ると、靴の底の溝に土が入る。


 入った土は、玄関で靴をたたくと落ちる。落とした土が、玄関のたたきに小さく残る。母がそれを毎日はいた。


 はいているのを見たのは二回だけで、あとは、朝になると無くなっている。


            *


 その冬、僕は自分のタイムを計っていない。


 計るものは家にあった。首から下げる紐がついているやつだ。持っていくことはできた。


 持っていかなかった理由を、僕はいまも書けない。


            *


 ゴールしてから、膝に手をついた。


 土に汗が落ちて、丸い跡ができた。一つ、二つ、三つ。


 四つ目は数えなかった。

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