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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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第021話 もったいない

 三月三日に、母が訊いた。


 「ピアノ、どうする?」


 夕飯のあと、七時四十分だった。台所の壁の前ではない。座卓のところで、母は千尋の連絡帳に判を押していた。押しながら訊いた。


 六年生になると塾が週四回になる。四月からの表は、まだ貼っていない。それでも分かる話だった。


 判は、千尋の連絡帳の右下に押す。毎日そこに押す欄がある。母は一日も飛ばしたことがない。


 押す位置がそろっている。上から見ると、赤い丸が縦に並んで見える。


            *


 やめる、と答えた。


 考えた時間は、たぶん二秒か三秒だ。


 陸上をやりたいと言うのには三日かかった。やめると言うのには三秒しかかからない。


 母は、そう、と言った。それだけだ。反対もしないし、確かめもしない。判を押す手も止まらなかった。


            *


 母は一度も、やめなさいとは言わなかった。


 どうする、と訊いただけだ。僕がやめると答えた。


 だから、僕が決めたことになる。


            *


 ピアノの前に座るときの手順は、五年で決まっている。


 椅子の高さを直す。ねじを右から二回転、左を同じ数だけ。三年生のころは二回転半だった。背が伸びたぶん減っている。


 譜面台に楽譜を置く。開いたところが閉じないように、洗濯ばさみを二つ使う。


 蓋を開ける。開けたら、右端から左端まで一度、目で見る。


 メトロノームを六十に合わせる。


 この四つの順番を、変えたことがない。


            *


 最後のレッスンは三月十七日の水曜だった。


 四時から四時半。いつもと同じ枠だ。三時五十分に着いた。


 やめる日も、同じ手順でやった。やめる日だから何かを変える、という考えが出てこない。


            *


 部屋は、入ると空気が少し温かい。前の三十分ぶんの熱が残っている。


 その日は、椅子の高さが僕のままだった。前の枠の子が来なかったらしい。直す必要が無い。


 それでも、ねじを一度ゆるめて、締め直した。手順だからだ。


            *


 弾いたのはブルグミュラーの一曲だ。


 途中で二回止まった。同じところで二回だ。左手が先に行く。先生は指の形を直して、続きをやらせた。


 三回目で通った。


 通ったあと、先生は何も言わなかった。


 「はい、おしまい」


 いつもと同じ言い方だ。五年間、毎週同じ言い方をしている人だった。


            *


 メトロノームを止めた。


 振り子を指で押さえる。押さえると、音が途中で切れる。


 切れたあとに何も残らない。仏壇の鈴とは違う。鈴は、たたいたあとに十二数えられる。メトロノームは零だ。


            *


 最後の一音がどこで消えたかを、僕は聞いていない。


 蓋を閉めるほうを見ていた。


            *


 母は先生に菓子折りを渡した。


 前の日に買ってきて、玄関に置いてあったやつだ。のしがかかっている。字は見なかった。


 買いに行くのに、母は電車で二駅行っている。近くの店では買わない。近くの店のものだと、相手に分かるからだ。


 分かると失礼になる、という決まりが母にはある。誰から教わったのかは知らない。


 「ここまでやらせていただいて」


 頭を下げた。下げたときの角度が、参観日のときより深い。下げてから、戻すのが少し遅かった。


 先生は、またいつでも、と言った。母は、はい、と答えた。


 その「はい」が、いつもより短かった。


            *


 先生のことを、僕はあまり知らない。


 名前と、家の場所と、廊下の造花に埃が積もっていることは知っている。指輪をしていた。左手のほうだ。


 五年通って、家族の話を一度も聞いていない。訊いたこともない。


 最後の日にも、訊かなかった。


            *


 五年で、発表会には五回出た。


 番号は年ごとに変わる。プログラムはうちに全部そろっている。母が取っておくからだ。


 束ねてある五枚を並べると、僕の名前の位置だけが上下する。


 実咲は五回とも二番だった。番号は年で変わるはずなのに、変わらない。


 三年目に、実咲の苗字がプログラムの上で変わった。佐倉から中西になって、次の年にまた佐倉に戻った。そのことについて、僕は誰にも訊いていない。


            *


 廊下で実咲とすれ違った。


 四時半からがその子の枠だ。三年生のころは僕が後ろだったのに、いつのまにか順番が入れ替わっている。いつ替わったのかは分からない。


 椅子は二つのままだ。座面の丸い座布団も、薄いままだった。


 「やめるんだ」


 なぜ知っているのかは訊かなかった。先生が言ったのだと思う。


            *


 「え、なんで」


 時間が無いから、と答えた。


 塾が週四回になる。六年生はそういうものだ。そう言えば、たいていの人はそこで話をやめる。


 実咲は少し黙った。


 黙っているあいだ、鞄の紐を持ち直した。持ち直してから、もう一度持ち直した。


            *


 「もったいない」


            *


 その言葉の意味が、僕には分からなかった。


 もったいない、というのは、うちで使う言葉だ。


 母は、食べ残しに言う。電気の消し忘れにも言う。買ったのに使わなかったものにも出てくる。


 払ったぶんが返ってこないときに使う言葉だと、僕は思っていた。


            *


 僕は五年間、週に一回、教室に通った。


 月謝は月に八千円だ。六十か月ぶん払っている。発表会の費用が別にあって、楽譜も別だ。


 やめるということは、そのぶんが返ってこないということになる。六十か月やって、残るのはブルグミュラーが一冊ぶんになる。


 だから、そう言われるのは分かる。


            *


 でも、実咲が言ったのはそういう意味ではなかった。


 実咲は月謝を払っていない。実咲の親が払っている。


 実咲は、うちがいくら払ったかを知らない。訊いたこともない。


 知らないのに、その言葉を使った。


            *


 何が、と訊いた。


 実咲は答えなかった。下を向いて、上履きのつま先を床に二回つけた。


 それから、こう言った。


 「わかんない」


 「わかんないけど、もったいない」


            *


 「じゃあ、なにするの」


 塾、と答えた。


 実咲は首を振った。


 「ちがう。そうじゃなくて」


 そうじゃなくて、の先が続かなかった。実咲は口を開けて、閉じて、鞄の持ち手のところを見た。


 言いたいことがあって、言葉が無い。そういう顔だ。二年前に、練習の話をしたときも同じ顔をしていた。


 僕のほうは逆だった。言葉はある。言いたいことが無い。


            *


 中でドアが開いて、先生が実咲の名前を呼んだ。


 実咲は立った。立ってから、一度だけこちらを見た。


 じゃあね、とは言わない。何も言わずに入っていった。


 ドアが閉まって、少ししてから、音が始まった。同じ四小節ではない。別の曲だった。


            *


 また会える? とは訊かなかった。


            *


 外へ出ると、まだ明るかった。


 三月の四時半は、二月の四時半より明るい。同じ時刻でも、月で違う。それを毎年、この時期に確かめていた。外に出るときの目のしぼり方が、冬とは違う。


 教室のある家の門は、押すとひっかかる。持ち上げてから押すと開く。五年で覚えたやり方だ。


 持ち上げて、押して、出た。


 先生は玄関まで出てきた。サンダルをつっかけて、門のところまで来て、そこで立っている。


 母が二回、振り返って頭を下げた。二回目のときも、先生はまだそこにいた。


 三回目は、僕が振り返った。もういなかった。


            *


 帰りは母と一緒だった。


 自転車を二台、押して帰った。母は道の車道側を歩く。前に一度そうなってから、そのままになっている。


 母はレッスンの話をしなかった。夕飯の話もしなかった。その日はどちらもしない。


 途中で、明日は資源ゴミの日だと言った。それだけだ。


 家に着いたのは五時十分だ。


            *


 家に帰って、母がピアノに布をかけた。


 押入れから出してきた白い布で、二つに折ってからかける。端が床につかない長さだ。


 かける前に、鍵盤を一度、布でひとなでした。


 僕がいつもやっていたやり方だ。


 母が先で、僕があとだった。順番を、その日に思い出した。


            *


 楽譜は箱に入った。


 五年ぶんで、みかんの箱に八分目まで入る。バイエルの上下と、ブルグミュラーと、発表会の曲の抜き刷りと、譜読み用の書き込みだらけのやつだ。


 母はそれを、押入れの下の段に入れた。上の段は千尋の絵の箱で埋まっている。


 捨てる、という話は出なかった。この家では、そういう話が出ない。


            *


 布は、それからずっとかかったままになる。


 中身は動いていない。母は時々ふたを開けて、拭いて、また閉める。拭く日は決まっていないらしい。


            *


 四月からの表が貼られた。


 ピアノの二十分は消えて、そこに「漢字」が入った。空いた時間に何も入らないということは、この家では起きない。


 消えた枠のところだけ、字が少し大きい。書くものが短いと、字が大きくなる。


            *


 千尋がその布を触った。


 「もうひかないの」


 ひかない、と答えた。


 千尋は、ふうん、と言って、それから鍵盤の蓋のところを一回だけ指でたたいた。音は出ない。


 布の上からだと、たたいた音も小さい。千尋はもう一回たたいて、それでやめた。


            *


 二か月で、指の先の硬いところが無くなった。


 左手の小指の付け根のあたりだ。押すと、前は硬かった。押しても普通の皮膚になっている。


 無くなったことに気づいたのは、無くなってからしばらくあとだ。いつ無くなったのかは分からない。


            *


 実咲とは、そのあと一度も会っていない。


 中学が違う。どこへ行ったのかも知らない。あの家がどこにあるのかも、結局知らないままだった。


            *


 その夜、ピアノの音がした。


 九時二十分だった。僕は自分の部屋にいて、布団に入っていた。


 母が弾いている。母が弾ける三曲のうちの一つだ。


 三曲を、僕は曲名で知らない。


 一つは、ゆっくりで、右手だけがずっと動く。一つは、途中から左手が跳ぶ。もう一つは、はじめの八小節しか聞いたことがない。


 訊けば教えてくれたと思う。訊かなかった。母がピアノに触るのは、僕がいないと思っているときだけだ。


            *


 僕が習った曲を、母は弾けない。


 五年やって、母の三曲に追いつかなかったのではない。追い越して、そのまま先へ行って、そこでやめた。


 自分の三曲を、母は僕に弾かせようとしなかった。教わりたいと言ったこともない。


            *


 途中で止まった。


 止まったところから先を、母は弾けない。弾けないところまでを、母は毎回弾く。


 毎回、同じところで止まる。


 止まったあとの間の長さが、その日はいつもより長かった。


 布団の中で、指が動いていた。曲の形で動く。動かそうと思っていない。

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