第018話 夏でも長袖
夏期講習は八月十七日から三十日までだった。
九時から十二時までが算数と国語、一時から四時までが理科と社会。十四日間で、休みは一日もない。
教室の冷房は強い。窓ぎわの席だけ寒い。前の席の子が、途中で上着を出して着た。
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森下は長袖だった。
二月も三月も長袖だった。それは冬だからだ。
八月も長袖だった。
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外は三十五度ある。
塾までの道で、僕は半袖のシャツが背中に張りつくのを何回か直した。ビルの前の歩道は、日をさえぎるものが無い。
森下は駅から歩いてくる。歩いて十二分だと言っていた。
その十二分も長袖だ。
袖口はいつも手首より下にある。ボタンを留めているのを見たことがない。留めないまま、下へ引いてある。
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八月二十二日に、それを見た。
三時十分ごろだ。理科の授業の途中で、机の向こうへ転がった消しゴムを取ろうとして、森下の右腕が前に出た。
袖が手首から肘のほうへずり上がった。
二秒くらいだったと思う。
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肘の内側の少し下に、五百円玉くらいのものが二つあった。
色は赤紫だ。ふちのほうが薄くて、真ん中が濃い。二つのうち片方は、形が細長い。丸ではなく、線に近い。
その上のほうに、もっと古いのがあった。そちらは黄色に近い。境目がぼやけていて、皮膚の色とどこで変わるのかが分からない。
腕自体は細い。細いので、そこだけ色が違うのがよく分かる。
森下からは、においがしない。汗のにおいも、家のにおいも、洗剤のにおいも無い。
においがしないというのが、そのときは分からなかった。何もついていないということだ。
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森下は袖を戻した。
戻し方が速くなかった。あわてていない。左手で袖口をつまんで、下へ引く。それだけだ。
その動きに、迷いが無い。迷いが無いというのは、初めてではないということだ。
僕がそこを見ていることに、森下は気づいた。目が合った。長くはない。
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僕は何か言おうとした。
口が開く前に、森下が言った。
「腹減った」
話はそこで終わった。授業は続いていて、先生が黒板に図を描いていた。てこの図だ。支点の位置を変えると、必要な力が変わるという話だった。
その日のノートには、てこの図が二つ描いてある。一つは先生が書いたとおりのもので、もう一つは、線がずれている。
ずれたほうを、僕は消していない。
それ、どうしたの、とは訊かなかった。
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次の日から、森下は消しゴムを左手で取るようになった。
右腕を前に出さない。ノートを書くときも、袖口を親指に引っかけている。引っかけると、手を動かしても袖が上がらない。
僕はその日、自分の腕を見た。半袖で、肘まで何も無い。日に焼けたところと焼けていないところの境目が、二の腕の途中にある。
森下のノートは相変わらず黒い。二重線で消したところが多い。
ページの端に、数字ではない形が時々書いてある。同じ形が何度も出てくる。四角の中に線が三本入っているやつだ。
意味は分からない。分からないまま、僕もノートの端に一度だけ真似して書いた。書いてから消した。
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色は日ごとに変わる。
赤紫が二日。青が三日か四日。それから黄色くなって、七日目か八日目に見えなくなる。
僕はその順番を、八月のあいだに覚えた。
覚えようとしたのではない。見えたものを数えると、勝手に順番になる。
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八月二十七日に、新しいのが増えた。
位置が違う。今度は左のほうだ。前のよりも小さい。二つ並んでいて、間が一センチくらい空いている。
増えた日と、消えた日を、僕は覚えている。
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森下は十四日のうち十二日来た。休んだのは二日だ。
休んだ二日がいつだったのかは、思い出せない。数えたのに、日付が出てこない。
僕は日付を忘れない人間だった。そのはずだった。
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母は毎日、弁当を作った。
夏期講習の十四日間ぶんだ。おかずの組み合わせを帳面に書いていて、同じ日が一度も無い。卵焼きは三日おきに入る。それも決めてあるのだと思う。
凍らせたタオルを持たせる日もあった。ビニールに入れて、鞄の外側のポケットに入れる。昼に出すと、まだ半分凍っている。
弁当は、ふたを開けても湯気が出ない。朝に詰めて、冷ましてから包むからだ。冷ましてあると水が出ない。ごはんの上にのせるものと、下に敷くものが決まっている。
行きに、母が二回、僕の襟の後ろを直した。歩きながら、後ろから手を伸ばして直す。
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森下は弁当を持ってこない。
昼はコンビニのおにぎりが一つだ。毎日同じ味だった。鮭のやつで、包みの開け方が速い。食べ終わるまでも短い。途中で置かない。
二日、何も食べない日がある。飲み物だけ買って、席に戻って、机に伏せていた。寝ているのかどうかは分からない。息の音がしない。
その二日が、休んだ二日とは別の日だということは覚えている。
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八月二十五日に、一度だけ自習室に残った。
ビルの下の公衆電話から母にかけた。自習室に残ると言うと、母は、いいわよ、と答えた。迎えは九時半になる。
自習室は三階だ。机が並んでいて、その日は半分も埋まっていない。仕切りが立っていて、隣の顔は見えない。鉛筆の音と、紙をめくる音と、エアコンの音だけがある。
森下は窓ぎわの端にいた。僕は二つ離れた席に座った。
九時二十分に、荷物をまとめた。まとめる音で森下が顔を上げた。
「帰んの」
うん、と答えた。
「何時に着く」
九時四十五分、と答えた。母の自転車と歩きで、坂を上がるからそうなる。
森下は、ふうん、と言った。それから、こう言った。
「いいな」
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いいな、と言われたのは、そのときが初めてだった。
点数のことは言われる。それは、いいな、ではない。すごい、とか、やるな、とか、そういう言葉になる。
いいな、というのは、そちら側に行きたいという意味だ。そのときは、そこまで考えていない。
自習室のドアは、音を立てないように閉めた。閉めてから、なぜそうしたのかを考えた。答えは出ない。
僕は階段を、途中で止まらずに下りた。
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教室には先生が三人いた。
誰も何も言わなかった。長袖のことも、おにぎりのことも、休んだことも。
言わなかったのではなくて、たぶん見ていない。教室の前から見えるのは、掲示板と、四十人ぶんの頭だ。
掲示板の前には、いつも人がたまる。自分の名前を探す時間が短い者ほど、そこに長くいる。
森下は掲示板を見ない。通るときに顔を上げない。
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僕は誰にも言わなかった。
母にも、先生にも、航にも言っていない。
言わないほうがいいと判断したのではない。言うという選択肢そのものが無かった。
言えば何かが動く、という考え方を、僕はまだ持っていない。動くのは、自分の順位と、母の予定表だけだった。
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母は一度も、僕を打たなかった。
手を上げられたことが一度もない。物が飛んできたこともなかった。声を張られたこともない。
僕の家には、あざができるようなことは何も無かった。
その夜、風呂で自分の腕を見た。湯に入れると赤くなる。出すと戻る。押すと白くなって、離すとすぐ色が返ってくる。
何も無い腕というのは、こういうものだ。
それまで、自分の腕をそういう目で見たことが無かった。
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その夏、航とは三回しか会っていない。
朝、ゴミ出しのときに一回。塾へ行く途中に二回だ。どちらも自転車ですれ違った。
三回とも、よう、で終わった。それ以上の話にならない。時間が無いのはこちらで、向こうは待っていない。
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八月三十日に夏期講習が終わった。
最後の日のテストで、僕は四百二十人中の九番だ。掲示で自分の名前を見つけるのが、前より早くなる。
森下は四番だ。名前の横の点数を見て、僕は自分との差を出した。十九点ある。
差を出してから、森下の腕のほうを見た。その日は袖が下りていて、何も見えない。
その夏の終わりに、僕の腕には線ができていた。日に焼けたところと焼けていないところの境目が、半袖の袖の位置についている。
森下の腕には、その線が無い。
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帰りに母が下で待っていた。いつもの、車道と反対側の位置だ。
自転車のかごに、凍らせたタオルの空のビニールが入っている。僕が朝に入れて、昼に出して、そのまま返したやつだ。母はそれを毎日洗って、次の日また凍らせる。
九月からは週三回に戻る。母はその話をした。予定表を書き直すという話だ。
「今年の夏、よくがんばったね」
僕は、うん、と答えた。
答えてから、坂の途中で、母の自転車のライトが一度消えたのを見ていた。こする部分がずれると消える。母は気づかずに押していた。
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うちはまだマシだ。
その夏、僕は初めて自分の家を、何かと比べた。
比べた相手が森下の家だったことを、僕はずっとあとまで問題だと思わなかった。




