第016話 廊下の声
六月十三日の土曜が参観日だった。
二時間目と三時間目が公開で、そのあとに懇談会がある。二時間目は九時四十分からだ。
教室の後ろに親が並ぶ。二十人くらいで、全員が立っている。椅子は出さない決まりになっている。
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母は来るのが遅かった。
九時四十五分に、後ろのドアが少し開いて、そこから入った。開ける音を立てないように、下のほうを持って引いていた。
入って、すぐ壁ぎわに寄った。前へは行かない。あとから来た人が二人いて、その二人を自分より前に入れた。
参観日の母は服が違う。紺色の、襟のある上着だ。家では着ない。前の日の夜に、椅子の背にかけてあるのを見た。
髪も違う。後ろでまとめてある。ピンが二本、右側にだけ入っていた。
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六月の教室は暑い。
窓を全部開けてある。上のほうの扇風機が二つ回っていて、羽の当たる音が一定していない。首の振れる先が、僕の席のところで少し止まる。
黒板の上に習字が貼ってある。三十二枚だ。名前の順に並んでいて、僕のは左から四番目にある。
書いた字は「大空」だ。四月に書いたものが、そのまま六月まで貼ってある。桑野先生の教室で書いたほうが上手い。学校で書くときは筆が違う。
貼ってある三十二枚のうち、金色の紙が貼ってあるのが五枚ある。僕のには貼っていない。学校の習字で選ばれたことは一度も無い。
その日、航は同じクラスにいた。五年生になってから同じ組だ。
航の席は窓ぎわの後ろから二番目だ。その後ろには誰も立っていない。
航は一度当てられて、答えられなかった。分かりません、と言って座った。座るときに笑っていた。先生は次の子を当てた。それだけだ。
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僕は一度だけ当てられた。
国語で、段落の要点を言う問題だった。立って、答えて、座った。二十秒もかかっていない。
先生が、そのとおりです、と言った。
後ろで何かが動く気配がした。誰かが誰かのほうを向いたのだと思う。振り返っていないので、誰が動いたのかは分からない。
背中の、肩甲骨のあいだのあたりが、そのとき少し熱くなった。
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その日の授業で何を習ったかを、僕は覚えていない。
廊下の床のワックスが剥げているところの形は覚えている。細長くて、片方の端が丸い。教室の前のドアの右側にある。上履きで踏むと、そこだけ音が少し違う。
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十時二十分から十五分の休みがある。
僕はトイレへ行った。戻る途中で、廊下の角の手前で足が止まった。
母の声がしたからだ。
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家での声と違う。
少し高い。語尾が上がる。息の量が多い。話しはじめの一音が、家のときより前に出ている。
母がこの声を出すのを、僕はそれまで聞いたことがなかった。
三人で話していた。声の高さで、誰と誰かの見当はつく。顔は見ていない。角を曲がっていないからだ。
上履きの底が床に張りついて、動かすと小さい音がする。動かさないようにした。
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「うちは何もさせてないんですけどねえ」
母がそう言った。
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そのあとに、この前のテストの話が続いた。
たまたまだと思うんですけど、という前置きがつく。前置きのあとに数字が来た。順位も言った。四百二十人という母数のほうを先に言って、それから順位を言う。
塾の名前は言わなかった。相手が知っていると分かっている場合、名前を言う必要が無い。
相手が、すごいわねえ、と言う。母は、いえいえ、と返した。
いえいえ、のあとに少し間がある。その間のぶんだけ、話が続いた。
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何もさせてない、というのは事実と違う。
公文。ピアノ。書道。スイミング。英会話。塾。数えれば六つある。
公文が週に二回。ピアノと書道とスイミングが一回ずつ。英会話は隔週で、塾が三回ある。合わせると、家にいない日のほうが多い。
それでも僕は、母が嘘をついたとは思わなかった。
母は嘘をつかない。だから、母の中では、あれが本当なのだと思うことにした。
思うことにする、というやり方を、僕はこの日に覚えた。
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母はそのあと、話を変えた。
「山口さんとこの子、絵がお上手ですよね。廊下に貼ってあるの、あれでしょう」
魚の絵だ。廊下の掲示板の、いちばん左に貼ってある。
うろこが一枚ずつ描いてある。数えたら六十枚以上あった。背びれのところだけ、線が二重になっている。目のところに白いのが一点だけ置いてあって、そこだけ紙の地が残っている。
その絵の前は、毎日通る。母は一度見ただけで覚えていた。
母は本当に上手いと思っている。声で分かる。
褒めるときの母の声は、この一種類しかない。
僕に言うときも、同じ声だ。
三人のうちの一人が、そこで声を落とした。
落としたところだけ聞こえない。廊下は声がよく通るのに、落とすと急に届かなくなる。
聞こえない部分のあとで、三人が同時に笑った。何がおかしかったのかは分からない。
僕はその笑いの中に、母の声を探した。あった。ほかの二人より少し遅れて始まって、先に終わる。
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そのあとに、大山さんの名前が出た。
「大山さんとこ、今日も来られないみたいねえ」
誰かがそう言った。言い方に、とがったところは無かった。事実を言っただけの言い方だ。
母は、お仕事でしょう、と言った。
それから、すぐ別の話にした。プールの開きが今年は遅いという話だ。話が変わるまでに、二秒もかからなかった。
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僕は角を曲がらなかった。
トイレのほうへ戻って、水道で手を洗った。洗う必要は無い。
水は冷たい。耳が熱かった。手のひらが湿っていて、水と区別がつかなくなった。
首の後ろの毛が立っている感じがした。六月で、寒くはない。
水を止めたあとも、しばらく手を出したままにしていた。指の先から落ちるのが止まるまで、二十秒くらいかかる。
止まってから、上履きのつま先が濡れているのに気づいた。いつ落ちたのかは分からない。
鏡は無い。この学校の廊下の手洗い場には鏡がついていない。自分がどんな顔をしていたのかは知らない。
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三時間目に間に合った。
十時三十五分の鐘のあとに、教室に入った。母は後ろに戻っている。
僕を見て、少し笑った。
僕も、たぶん、少し笑った。
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三時間目は算数だった。当てられなかった。
当てられなかったことを、そのとき少し考えた。二時間目に当てられているので、続けて当てるのは公平ではない。先生はそういうやり方をする。
考えていて、黒板の途中を写しそこねた。ノートに一行ぶんの空きがある。
あとで隣の子に見せてもらった。
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懇談会のあいだ、僕たちは校庭にいた。
六月の校庭は白い。砂が乾いていて、走ると足の裏で鳴る。日陰は鉄棒のところにしかない。
航と二人で、ドッジボールの球を蹴っていた。ゴールは無い。壁に当たったら交代という決まりを、その場で決めた。
航は、僕の親が来ていたことに触れなかった。
僕も、航の親が来ていないことに触れなかった。
両方とも触れないので、話すことがあまり無い。球の当たる音だけが、しばらく鳴っている。
十二時十分に母が出てきた。航は、じゃあな、と言って自分の家のほうへ歩いていった。校庭から直接出られる門がある。
僕は母と一緒に、正門から帰った。
母は千尋と手をつないで歩いた。僕は半歩後ろを歩く。歩く速さが合わないので、時々止まって待つことになる。
待っているあいだに、道の端の側溝の蓋を数えた。家までに十七枚ある。
帰り道で、母は授業の話をしなかった。夕飯の買い物の話をした。豚肉が安かったらしい。バラが百グラム九十八円で、それを二パック買うつもりだと言った。
千尋も一緒だった。一年生の参観も同じ日で、母は二時間目の前の半分を一年生の教室で見ていた。だから僕の教室に来るのが遅かった。
帰り道で、千尋が言った。
「おかあさん、まえのほうにいたよ」
千尋の教室では前のほうにいたらしい。
母は、そうだったかしら、と言った。
何もさせてないわけじゃないよ、とは言わなかった。
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母は一度も、他所の子を悪く言わなかった。
廊下でも、家でも、一度もだ。誰かの点数を下に置いて僕の点数を上げる、という話し方をしない。
僕はそれを、そのころから知っていた。
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母は家に着くと、まず上着をハンガーにかけた。かけてから、肩のところを両手で一度伸ばした。
その上着を次に見たのは、半年あとの参観日だ。それまで、ずっとかかったままだった。
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その夜、九時すぎに台所でペンの音がした。
書いている時間が、いつもより長い。途中で一度止まって、また動いた。
僕は自分の部屋にいた。廊下には出ていない。
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母が僕のことを話しているのを聞いたのは、それが初めてだった。
初めてなのに、聞き覚えのある話だった。




