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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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18/25

第016話 廊下の声

 六月十三日の土曜が参観日だった。


 二時間目と三時間目が公開で、そのあとに懇談会がある。二時間目は九時四十分からだ。


 教室の後ろに親が並ぶ。二十人くらいで、全員が立っている。椅子は出さない決まりになっている。


            *


 母は来るのが遅かった。


 九時四十五分に、後ろのドアが少し開いて、そこから入った。開ける音を立てないように、下のほうを持って引いていた。


 入って、すぐ壁ぎわに寄った。前へは行かない。あとから来た人が二人いて、その二人を自分より前に入れた。


 参観日の母は服が違う。紺色の、襟のある上着だ。家では着ない。前の日の夜に、椅子の背にかけてあるのを見た。


 髪も違う。後ろでまとめてある。ピンが二本、右側にだけ入っていた。


            *


 六月の教室は暑い。


 窓を全部開けてある。上のほうの扇風機が二つ回っていて、羽の当たる音が一定していない。首の振れる先が、僕の席のところで少し止まる。


 黒板の上に習字が貼ってある。三十二枚だ。名前の順に並んでいて、僕のは左から四番目にある。


 書いた字は「大空」だ。四月に書いたものが、そのまま六月まで貼ってある。桑野先生の教室で書いたほうが上手い。学校で書くときは筆が違う。


 貼ってある三十二枚のうち、金色の紙が貼ってあるのが五枚ある。僕のには貼っていない。学校の習字で選ばれたことは一度も無い。


 その日、航は同じクラスにいた。五年生になってから同じ組だ。


 航の席は窓ぎわの後ろから二番目だ。その後ろには誰も立っていない。


 航は一度当てられて、答えられなかった。分かりません、と言って座った。座るときに笑っていた。先生は次の子を当てた。それだけだ。


            *


 僕は一度だけ当てられた。


 国語で、段落の要点を言う問題だった。立って、答えて、座った。二十秒もかかっていない。


 先生が、そのとおりです、と言った。


 後ろで何かが動く気配がした。誰かが誰かのほうを向いたのだと思う。振り返っていないので、誰が動いたのかは分からない。


 背中の、肩甲骨のあいだのあたりが、そのとき少し熱くなった。


            *


 その日の授業で何を習ったかを、僕は覚えていない。


 廊下の床のワックスが剥げているところの形は覚えている。細長くて、片方の端が丸い。教室の前のドアの右側にある。上履きで踏むと、そこだけ音が少し違う。


            *


 十時二十分から十五分の休みがある。


 僕はトイレへ行った。戻る途中で、廊下の角の手前で足が止まった。


 母の声がしたからだ。


            *


 家での声と違う。


 少し高い。語尾が上がる。息の量が多い。話しはじめの一音が、家のときより前に出ている。


 母がこの声を出すのを、僕はそれまで聞いたことがなかった。


 三人で話していた。声の高さで、誰と誰かの見当はつく。顔は見ていない。角を曲がっていないからだ。


 上履きの底が床に張りついて、動かすと小さい音がする。動かさないようにした。


            *


 「うちは何もさせてないんですけどねえ」


 母がそう言った。


            *


 そのあとに、この前のテストの話が続いた。


 たまたまだと思うんですけど、という前置きがつく。前置きのあとに数字が来た。順位も言った。四百二十人という母数のほうを先に言って、それから順位を言う。


 塾の名前は言わなかった。相手が知っていると分かっている場合、名前を言う必要が無い。


 相手が、すごいわねえ、と言う。母は、いえいえ、と返した。


 いえいえ、のあとに少し間がある。その間のぶんだけ、話が続いた。


            *


 何もさせてない、というのは事実と違う。


 公文。ピアノ。書道。スイミング。英会話。塾。数えれば六つある。


 公文が週に二回。ピアノと書道とスイミングが一回ずつ。英会話は隔週で、塾が三回ある。合わせると、家にいない日のほうが多い。


 それでも僕は、母が嘘をついたとは思わなかった。


 母は嘘をつかない。だから、母の中では、あれが本当なのだと思うことにした。


 思うことにする、というやり方を、僕はこの日に覚えた。


            *


 母はそのあと、話を変えた。


 「山口さんとこの子、絵がお上手ですよね。廊下に貼ってあるの、あれでしょう」


 魚の絵だ。廊下の掲示板の、いちばん左に貼ってある。


 うろこが一枚ずつ描いてある。数えたら六十枚以上あった。背びれのところだけ、線が二重になっている。目のところに白いのが一点だけ置いてあって、そこだけ紙の地が残っている。


 その絵の前は、毎日通る。母は一度見ただけで覚えていた。


 母は本当に上手いと思っている。声で分かる。


 褒めるときの母の声は、この一種類しかない。


 僕に言うときも、同じ声だ。


 三人のうちの一人が、そこで声を落とした。


 落としたところだけ聞こえない。廊下は声がよく通るのに、落とすと急に届かなくなる。


 聞こえない部分のあとで、三人が同時に笑った。何がおかしかったのかは分からない。


 僕はその笑いの中に、母の声を探した。あった。ほかの二人より少し遅れて始まって、先に終わる。


            *


 そのあとに、大山さんの名前が出た。


 「大山さんとこ、今日も来られないみたいねえ」


 誰かがそう言った。言い方に、とがったところは無かった。事実を言っただけの言い方だ。


 母は、お仕事でしょう、と言った。


 それから、すぐ別の話にした。プールの開きが今年は遅いという話だ。話が変わるまでに、二秒もかからなかった。


            *


 僕は角を曲がらなかった。


 トイレのほうへ戻って、水道で手を洗った。洗う必要は無い。


 水は冷たい。耳が熱かった。手のひらが湿っていて、水と区別がつかなくなった。


 首の後ろの毛が立っている感じがした。六月で、寒くはない。


 水を止めたあとも、しばらく手を出したままにしていた。指の先から落ちるのが止まるまで、二十秒くらいかかる。


 止まってから、上履きのつま先が濡れているのに気づいた。いつ落ちたのかは分からない。


 鏡は無い。この学校の廊下の手洗い場には鏡がついていない。自分がどんな顔をしていたのかは知らない。


            *


 三時間目に間に合った。


 十時三十五分の鐘のあとに、教室に入った。母は後ろに戻っている。


 僕を見て、少し笑った。


 僕も、たぶん、少し笑った。


            *


 三時間目は算数だった。当てられなかった。


 当てられなかったことを、そのとき少し考えた。二時間目に当てられているので、続けて当てるのは公平ではない。先生はそういうやり方をする。


 考えていて、黒板の途中を写しそこねた。ノートに一行ぶんの空きがある。


 あとで隣の子に見せてもらった。


            *


 懇談会のあいだ、僕たちは校庭にいた。


 六月の校庭は白い。砂が乾いていて、走ると足の裏で鳴る。日陰は鉄棒のところにしかない。


 航と二人で、ドッジボールの球を蹴っていた。ゴールは無い。壁に当たったら交代という決まりを、その場で決めた。


 航は、僕の親が来ていたことに触れなかった。


 僕も、航の親が来ていないことに触れなかった。


 両方とも触れないので、話すことがあまり無い。球の当たる音だけが、しばらく鳴っている。


 十二時十分に母が出てきた。航は、じゃあな、と言って自分の家のほうへ歩いていった。校庭から直接出られる門がある。


 僕は母と一緒に、正門から帰った。


 母は千尋と手をつないで歩いた。僕は半歩後ろを歩く。歩く速さが合わないので、時々止まって待つことになる。


 待っているあいだに、道の端の側溝の蓋を数えた。家までに十七枚ある。


 帰り道で、母は授業の話をしなかった。夕飯の買い物の話をした。豚肉が安かったらしい。バラが百グラム九十八円で、それを二パック買うつもりだと言った。


 千尋も一緒だった。一年生の参観も同じ日で、母は二時間目の前の半分を一年生の教室で見ていた。だから僕の教室に来るのが遅かった。


 帰り道で、千尋が言った。


 「おかあさん、まえのほうにいたよ」


 千尋の教室では前のほうにいたらしい。


 母は、そうだったかしら、と言った。


 何もさせてないわけじゃないよ、とは言わなかった。


            *


 母は一度も、他所の子を悪く言わなかった。


 廊下でも、家でも、一度もだ。誰かの点数を下に置いて僕の点数を上げる、という話し方をしない。


 僕はそれを、そのころから知っていた。


            *


 母は家に着くと、まず上着をハンガーにかけた。かけてから、肩のところを両手で一度伸ばした。


 その上着を次に見たのは、半年あとの参観日だ。それまで、ずっとかかったままだった。


            *


 その夜、九時すぎに台所でペンの音がした。


 書いている時間が、いつもより長い。途中で一度止まって、また動いた。


 僕は自分の部屋にいた。廊下には出ていない。


            *


 母が僕のことを話しているのを聞いたのは、それが初めてだった。


 初めてなのに、聞き覚えのある話だった。

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