第015話 なんのために勉強してんの
一月の終わりに、母が封筒を出してきた。
塾の案内だ。表に、新五年生募集と書いてある。中に日程表と、受験票と、駅からの地図が入っていた。地図には、コンビニと交番が目印として描いてある。
母はそれを僕の机の上に置いて、こう言った。
「行ってみる?」
*
行きなさい、とは言わなかった。
母は一度も、そう言わなかった。行ってみる? と訊いただけだ。僕はうん、と答えた。
だから、僕が決めたことになる。
*
封筒はもう開いていた。
開いて、中を見て、日程に丸をつけてから、僕のところへ来ている。二月八日のところに赤い丸があった。
僕がうんと言う前に、その丸はついていた。
母は資料を三つ取り寄せていたと思う。台所の棚に、封筒がもう二つあった。月謝と、日数と、駅からの距離を比べたのだろう。比べた紙は見ていない。
選ばれた一つだけが、僕のところに来る。
*
二月八日は日曜だった。
集合は九時二十分。会場は駅の東口のビルの四階だ。僕は第二教室の、窓から二列目の前から三番目に座った。
受験番号は四〇七だ。机の右上に番号の紙が貼ってある。角が一つだけ浮いていて、指で押さえると、また浮く。
鉛筆は五本持たされた。全部Bで、同じ長さに削ってある。削ったのは母だ。前の日の夜、新聞紙を広げて削っていた。削りかすを新聞ごと丸めて捨てるところまでが一続きになっている。
*
九時半に「はじめ」の声がした。
声のあとに、紙の音が一拍遅れて来る。四十人ぶんが同時に動く音は、雨に少し似ている。
僕は名前を書いた。書いてから、名前の欄が二つあることに気づいた。片方が保護者名だ。そこは空けておいた。
国語が十時十分に終わって、算数が十時二十分から始まる。
*
算数の最後の問題で、手が止まった。
図形だ。補助線を一本引けば解けるのは分かる。どこに引くかが出てこない。
残りは六分ある。六分のうち四分を、その一本に使った。
引かなかった。引かないまま、十一時十分になる。
鉛筆を置く音が、また四十人ぶん鳴った。今度はそろっていない。
*
問題を、僕は一問も覚えていない。
窓から工事のクレーンが見えたことは覚えている。黄色だった。腕が動くたびに、先に吊ってあるものが少し遅れて動く。動きが止まってからも、吊ってあるものだけがしばらく揺れていた。
覚えているのは、それだけだ。
*
廊下に母親が並んでいた。
二十人くらいだ。壁ぎわに立って、話している人と、していない人がいる。母は話していないほうだった。
僕を見つけて、手を上げた。上げ方が小さい。肘から先だけを、一度だけ動かす。
「おなかすいたでしょ」
どうだった、とは訊かなかった。その日は最後まで訊かなかった。
*
帰りにドーナツの店に寄った。
僕はエンゼルクリームを取った。母はコーヒーだけ頼んだ。
「食べないの」
「甘いのはいいの」
母は一口だけもらった。半分に割って、小さいほうを取った。取ってから、白いのが指についたのを紙で拭いた。
店は暖房が効きすぎていて、上着を脱いだ。脱いだ上着を、母が膝に載せてたたんだ。たたむ順番が決まっている。袖を後ろへ回して、肩で合わせて、二つに折る。
*
結果は一週間後に出た。
S一組。四百二十人中の十七番だった。
母はその紙を、いつもより長く見ていた。長く見て、日付を確認して、引き出しに入れた。
その夜、台所でペンの音がした。紙をめくる音もした。
*
三月に保護者会があった。
母は前から二列目に座ったらしい。座った場所を、帰ってきてから言った。
その夜、メモを書いていた。今年やることと、来年やることだ。来年のほうが行数が多い。
六年生の夏までに終わらせるものが、そこに並んでいた。僕はまだ五年生になっていない。
*
三月の最初の授業で、隣が森下拓也だった。
塾は五時から九時までだ。学校が終わってから、家に帰って、四時四十分に出る。教室に着くのが五時十分前になる。
森下は僕より先に来ている。毎回だ。教室が開いた時刻に入っているのだと思う。
テキストが増えて、鞄が重い。肩に線が残る。家に着いてから、線が消えるまでに二十分くらいかかる。
*
塾の席は成績順だ。
毎月のテストで並び替える。一番前の右端が一位で、そこから左へ、後ろへと下がる。三月の最初は入塾テストの順だった。僕は二列目の左から二つ目になる。
森下は一列目の左端だった。
教室の後ろに掲示板があって、上位五十人の名前が貼ってある。名前の横に点数がある。
自分の名前を探すのに、五秒もかからない。
*
教室は蛍光灯が明るくて、天井が低い。壁に何も貼っていない面が一つある。窓のない側だ。
椅子はパイプ椅子で、座ると背もたれが少し後ろへ倒れる。倒れる角度が席によって違う。
消しゴムのかすを捨てる箱が、部屋の隅に置いてある。中がいつも半分くらいまで埋まっている。
先生は最初の授業でこう言った。
「ここにいるみんなが、行きたい学校に行けるわけじゃありません」
教室から音が無くなった。それから先生は笑って、続きを話した。
僕はその一文をノートの端に書いた。書いてから、線を引いて消した。
*
森下は鉛筆を三本、筆箱の上に立てて置く。
消しゴムを使わない。間違えたところは二重線で消して、その横に書き直す。ノートが黒い。
髪が短い。前髪が眉より上にある。刈ったばかりの日は、耳の後ろだけ色が白い。
答えを書いてから問題を読み直すのを、僕はこの日に初めて見た。読み直して、合っていると分かると、そこで手を止める。
速い。僕より速いところがある。全部が速いのではなく、途中の何段かを飛ばしている。
*
二月と三月の教室では、全員が長袖を着ている。
冬だからだ。
長袖が意味を持つのは、夏になってからだった。
*
森下は僕に、家のことを二つ訊いた。
「お前んち、何時に飯」
六時半、と答えた。
「毎日?」
毎日、と答えた。
森下は、ふうん、と言った。それきり家の話はしない。
*
休み時間に、森下がこう言った。
「お前、なんのために勉強してんの」
訊き方に、からかう感じは無かった。本当に訊いている顔だ。こちらを見ずに、シャープペンの芯を出したり戻したりしている。
*
将来、選べるようになるためだ、と答えた。
選択肢は多いほうがいい。あとで困らない。だから今のうちにやる。困ってからでは間に合わない。
全部、そのとおりだと思って言った。言いながら、言葉が途中でつかえなかった。
*
森下は、ふうん、と言った。
芯を戻して、ノートの端に何か書いた。数字ではない形だった。
それから、こう続けた。
「ここ、五時から九時までやってるんだよ」
うん、と答えた。
「いい場所だろ」
*
いい場所だ、というのが何のことか分からなかった。
授業が良いという意味だと思った。合っていると思って、そう思ったままにした。
森下はなんのためなの、とは訊かなかった。
*
九時に授業が終わる。
外は暗い。ビルの下で、迎えの車が並んでいる。母は自転車で来る。冬は毛布を荷台に積んでくる。
自転車を止める場所は、いつも車道と反対側だ。歩く人の邪魔にならない位置に寄せる。ビルの前は人が多いので、少し離れたところで待っている。
迎えの車のヘッドライトが、順番に消えて、順番に動きだす。母の自転車には、そういうものが無い。
三月の夜はまだ冷える。息が白い。毛布は母が家で膝に掛けているものだ。僕は使わない。掛けると、坂で歩くときに邪魔になる。
母の手は、ハンドルを握っているほうだけ赤い。
自転車のライトは、タイヤにこすりつけて光るやつだ。走ると音がする。押しているあいだは鳴らない。
坂を上がりきると、母はライトを戻して、また乗った。乗りだしの一こぎが重い。
九時十五分に、駅前の坂を二人で押して上がった。母は自転車を引いて、僕はその横を歩く。
森下は最後まで残る。自習室が九時半までやっているからだ。僕は使わない。下で母が待っている。
坂の上で一度だけ振り返ったことがある。四階の窓に、まだ明かりがついていた。
坂の途中で、母が訊いた。
「今日は何やったの」
速さと比の問題だ、と答えた。追いつくまでの時間を出すやり方を習った。図を描くと、線が二本になる。
説明しようとした。式のところまで来たときに、母が言った。
「そう。来週、漢字の五十問テストがあるでしょう」
ある、と答えた。
「範囲、もらってきた?」
もらってきた、と答えた。
式の話は、そこで終わった。
*
四月に千尋が小学校に上がった。
時間割をもらってきて、冷蔵庫に貼った。貼ったのは千尋だ。曲がっていた。
千尋の机の前の壁には、そのあとも何も貼られなかった。
*
帰り道で、さっき自分が言ったことを思い出していた。
選択肢は多いほうがいい。あとで困らない。困ってからでは間に合わない。
あの言い方を、僕はどこかで聞いたことがある。
どこで聞いたのかは、その日は思い出せなかった。




