表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/23

第014話 千尋の部屋

 十一月十八日に、冷蔵庫に絵が貼られた。


 千尋が幼稚園で描いたものだ。四つ切りの画用紙で、扉の半分を占める。上の二箇所をマグネットで留めてある。マグネットは白い丸で、四つあるうちの二つを使った。


 貼る場所は正面だ。予定表の隣ではない。予定表は壁で、絵は冷蔵庫の扉になっている。


 母は少し下がって、位置を見た。それから一度はがして、二センチくらい右にずらして貼り直した。扉の取っ手にかからない位置だ。開け閉めのたびに端がめくれるのを、母は嫌う。


            *


 母は千尋にこう言った。


 「上手ねえ。ここのところ、どうやったの」


 千尋が説明した。長い説明だった。


 クレヨンを寝かせて塗ったところと、指でこすったところがあるらしい。途中から話が別のところへ行った。同じ組の子が水色のを折ったという話になって、折れた片方が机の下に落ちて、まだそこにあるという話になった。


 母は最後まで聞いた。相槌の位置が正しい。千尋が息を吸うところで、うん、と言う。


 絵の話には戻らなかった。母は戻さなかった。


            *


 僕の答案は、引き出しに入る。


 百点を取ると、母はそれを見て、日付を確認して、机の右の引き出しに入れる。上から順にたまっていく。三年ぶんで、厚さが五センチある。


 貼るという発想が、この家には無い。


 僕のも貼ってほしい、とは言わなかった。


            *


 絵は十一日貼ってあった。


 十一月十八日に貼られて、十一月二十九日にはがされた。次の絵に替わったからだ。はがしたものは母が丸めて、輪ゴムで留めて、押入れの上の段に入れた。


 何の絵だったのかを、僕は覚えていない。人が描いてあったのは確かだ。色が多かった。空が水色ではなかった気がする。


 貼ってあった日数だけを覚えている。


            *


 僕の一日には、時刻がついている。


 六時四十分に起きる。七時十二分に家を出る。四時二十分に帰る。四時半から公文の紙。五時十五分からピアノ。六時半に夕飯。八時から漢字。九時半に寝る。


 千尋の一日には、時刻がついていない。


 起きたら起きたときで、帰ったら帰ったときだ。夕飯は同じ時刻に食べる。それ以外に、千尋の時刻は無い。


 同じ家の中で、二人は違う速さで動いていた。


            *


 千尋の足音は軽い。


 母の足音は速いか、そうでないかのどちらかだ。千尋の足音は、速さが途中で変わる。廊下を走って、畳のところで一度止まって、また走る。


 止まる場所が決まっていない。


 決まっていないというのが、僕には分からなかった。止まるなら、止まる理由があるはずだ。理由が無いのに止まる人間を、僕はそれまで見たことがない。


            *


 千尋は僕の部屋に入ってくる。


 ノックはしない。入ってきて、机の横に立って、何をしているのかを見る。見て、飽きて、出ていく。長いときで二分、短いときは十秒だ。時間を測ったことがある。三日ぶん測って、平均を出して、それをやめた。出したところで使い道が無い。


 鉛筆の動きを目で追っている。息が肩に当たるくらい近いことがある。


 母はそれを止めない。


 「お兄ちゃんは勉強中よ」とは言う。言うだけで、追い出しはしない。千尋が自分で出ていくまで待つ。


            *


 千尋の机には、何も貼っていない。


 机はある。母が買った。学習机で、上に棚がついていて、蛍光灯もついている。僕のと同じ型で、色だけが違う。


 千尋はそこで絵を描く。宿題を出されていない。時間割も持っていない。貼るものが一枚も無い。


 棚には折り紙と、シールの帳面と、幼稚園でもらった鈴が置いてある。千尋は用が無いときにそれを振る。


 鳴りやんだあとに、音が少し残る。残る長さは振り方で変わる。強く振ると短くて、弱く振ると長い。


 僕はそれを数えたことがある。長いときで四秒あった。千尋は数えない。振って、置いて、別のことをする。


            *


 千尋が僕の答案を見たことがある。


 机の上に出しっぱなしになっていたやつだ。両手で持って、逆さのまま見ていた。


 「これなに」


 テストだ、と答えた。


 「なにするの」


 答えられなかった。何をするものかを、僕は考えたことがない。やって、丸をつけてもらって、引き出しに入る。それで終わりだ。


 千尋は答えを待たずに机へ置いて、出ていった。置き方が雑で、右下の角が少し折れた。


 折れたところを、僕は爪で伸ばした。伸ばすと折り目が白く残る。


            *


 僕は一度だけ、母に訊いた。


 「千尋は公文やらないの」


 夕飯のあとで、母は洗い物をしていた。手を止めずに答えた。


 「あの子はあの子だから」


 水の音がして、皿を立てる音がした。それから、母はこう続けた。


 「千尋には千尋のいいところがあるでしょう」


 母は水を止めて、手を拭いて、こちらを向いた。


 「秀真は、そういうことを気にしてくれるのね」


 褒められたのだと分かった。分かったので、それ以上は訊かなかった。


            *


 僕はうなずいた。


 うなずいてから、自分の部屋に戻った。


 そのとき僕が思ったのは、千尋がかわいそうだということだ。何もやらせてもらえない。このままだと将来こまる。


 本当にそう思った。思っただけで、誰にも言っていない。


 母の言い方には、隠すところが一つも無かった。母は千尋のことを、そのまま言っている。


            *


 十二月に千尋が熱を出した。


 三日間だ。母は枕元にいた。氷まくらを替えて、額に手を当てて、二時間おきに熱を測る。三十八度二分から下がらない日があった。


 台所と部屋を行き来する足音が、その三日だけ、速さの区別が無くなった。速いのでも、そうでないのでもない。ただ動いている。


 僕が熱を出したときも同じだった。同じようにしてもらったのを覚えている。梨をすったのを匙で食べさせてもらった。母の手は冷たくて、額に置かれると、そこだけ温度が下がる。


 僕が熱を出した日は、公文の紙が翌日に繰り越される。二日休めば二十枚だ。


 千尋の熱の日には、繰り越されるものが無い。


            *


 正月に父が帰ってきて、千尋を膝に乗せた。


 乗せたまま、みかんの皮をむいて渡していた。千尋は父の腕にもたれて、テレビのほうを向いている。父の膝は、そのあいだ動かない。


 アルバムに、父の膝の上にいるのは千尋だけだ。三枚ある。


 僕が写っている写真は、賞状を持っているものが多い。数えたことがある。十四枚だ。どれも同じ立ち方をしている。両手で紙の下の角を持って、胸の高さで前に出す。


            *


 千尋の絵は捨てない。丸めて、輪ゴムで留めて、押入れの上の段の箱に入る。箱は二つある。ふたに年が書いてあった。


 僕の答案も捨てない。引き出しがいっぱいになると、母が段ボールに移す。移すときに順番は崩さない。


 両方とも取ってある。片方は一度壁に出てから箱に入り、もう片方は、はじめから引き出しに入る。


            *


 二月に幼稚園の生活発表会があった。


 千尋は木の役だった。台詞は無い。三人で並んで両手を上げて立っている。曲が終わるまで動かない役だ。


 母はビデオを撮った。十一分撮ってあって、そのあいだずっと千尋を追っている。木の役は三人いるのに、画面の真ん中は動かない。


 帰りに母が言った。


 「ちゃんと立ってたね」


 千尋は、木だったから、と答えた。


            *


 母は一度も、千尋と僕を比べなかった。


 どちらが上だとも下だとも言わなかった。お兄ちゃんを見習いなさい、という台詞をこの家で聞いたことがない。千尋のように育てばよかった、とも言われていない。


 比べられたことが一度も無い。


 比べられていたら、たぶん、もっと早く気づいた。


            *


 二月に、千尋が絵をくれた。


 「おにいちゃんの」


 人が二人描いてある。片方が大きい。大きいほうの手が、指まで描き分けてあった。五本ある。


 僕はそれを見て、裏を返して、日付が書いていないことを確かめた。それから机の右の引き出しを開けて、答案の束の上に置いた。


 壁には貼らなかった。


            *


 三月の日曜に、千尋が折り紙を持ってきた。


 鶴の折り方を知りたいらしい。僕は本を見ないで折れる。一年生のときに覚えて、それきり手が忘れていない。


 目の前で一度折って、広げて、折り目だけの紙を渡した。折り目のとおりに折れば同じものになる。


 千尋は途中で違うところを折った。首が背中から出た鶴ができた。


 それを笑って、そのまま机の上に置いた。次の日も置いてある。


 正しく折れたほうは、どこかへ行った。間違えたほうが残った。


            *


 千尋の机の前の壁には、何も貼っていない。


 僕の机の前の壁には、六枚貼ってある。予定表の写し。公文の進度表。時間割。ピアノの練習表。目標。漢字の一覧。全部、母が書いたか、母が貼ったかのどちらかだ。


 六枚と、零枚。


 どちらが多くもらっているかは、そのときの僕には明らかだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ