第013話 お母さん、悲しい
三日たっていた。
八月十日の朝だ。七時二十分に母がゴミを出しに行った。集積所は角を曲がったところにあって、行って帰るのに四分かかる。前に数えたことがある。
僕は居間の机で紙をやっていた。三枚目の途中だ。
四分たっても母は帰ってこない。六分がすぎた。
玄関が開いたのは七時二十九分だった。
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その音のあとに、足音が来る。
母の足音は、速い日と、そうでない日がある。速い日は、たいてい何か言われる。
廊下の板は、どこで鳴るかが決まっている。玄関から数えて三枚目と、七枚目だ。三枚目が鳴ってから七枚目が鳴るまで、いつもは二拍しかない。
その朝は、七枚目が鳴らなかった。
台所の前で止まったということになる。荷物を置く音がして、水が出て、止まった。
止まっているあいだ、僕の手は動いていた。字は書けている。書けているのに、いま何番の問題をやっているのかが分からなくなった。
外では蝉が鳴いている。前の日と同じ数だけ鳴いているはずだ。数える気にならなかった。
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母は居間の入口に立った。
「大山さんのお母さんに会ったの」
僕は鉛筆を置いた。置くときに、机の縁と平行になるように置いた。
「この前はうちの子と遊んでくれてありがとうございました、って」
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大山さんのお母さんは、そう言ったのだと思う。
僕はその場を見ていない。集積所で、朝の、ゴミ袋を持ったままの立ち話だ。二人がどんな顔をしていたのかを僕は知らない。
母はその場では笑って返したはずだ。母は人前で顔を崩さない。
礼を言った人には、悪いところが一つも無い。子どもが遊びに来て、遊んで帰った。それだけのことを、それだけの言い方で伝えている。
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母は僕の向かいに座った。
座るときに、エプロンの紐を一度直した。ほどけていたわけではない。結び目の位置を、真ん中に寄せただけだ。
「行ったの」
「うん」
嘘はつかなかった。つくという考えそのものが出てこない。
三時間だけです、とは言わなかった。
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母は何も言わなかった。
時計の秒針が聞こえる。十秒か、二十秒か。数えていない。数えられなかった。
そのあいだに、指先が冷たくなっていくのが分かった。八月の朝で、部屋の温度は下がっていない。指だけが下がる。
膝の上に手を置いた。置いてから、置く場所が違う気がして、机の上に戻した。
それから母が言った。
「お母さん、悲しい」
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ごめんなさい、と言った。
言うまでに間は無かったと思う。口のほうが先に動いた。
何を謝っているのかは分からない。決まりを破ってはいない。あまり遊ばないでね、と言われただけだ。行ってはいけない、とは言われていなかった。紙は十枚やった。ピアノも弾いた。
それでも、謝るのが正しいことだけは分かる。
僕がなんと言って謝ったのかを、覚えていない。ごめんなさい、だったとは思う。そのあとに何か続けた気もする。何を続けたのかが出てこない。
覚えているのは、母がうなずいたことだ。一回だけ、浅くうなずいた。
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「怒ってないのよ」
母はそう言った。
「怒ってない。悲しいだけ」
それから立って、台所へ戻った。椅子は音を立てずに戻した。戻すときに、脚の位置を床の目に合わせている。
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母は一度も怒鳴らなかった。
この家で怒鳴り声を聞いたことがない。父も母も声を張らない人だ。皿を置く音が大きくなることもなかった。
友達の家では、壁ごしに聞こえてくることがある。うちからは何も聞こえないはずだ。
声を張らない家で育つのは、たぶん良いことだと思う。
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その日の夕飯はハンバーグだった。
朝のうちに仕込んであった。冷蔵庫の下の段に、平らにした種がラップをかけて置いてあるのを、僕は前の日の夜に見ている。三つ並べて、上に一つ載せてあった。四つのうち一つは千尋の小さいやつだ。
つまり、僕が謝る前から決まっていた。
玉ねぎを二個みじん切りにして、水にさらして、それを絞る。絞ったぶんは捨てる。そうしないと種がゆるくなる。
焼くときに、真ん中を親指でへこませる。四つとも同じ深さにへこませた。
台所の入口から、僕はそれを見ていた。母は振り向かない。振り向かないまま、そこにいてもいいということになっている。
油のはねる音が、三回だけ大きくなった。
六時四十分に夕飯になった。
僕の皿のには、ソースが少し多い。千尋のには少ない。千尋は味の濃いのが苦手だからだ。母は同じものを作って、皿の上で分ける。
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父は八時十五分に帰ってきた。
母は父に何も言わなかった。千尋にも言わない。
夕飯のあいだ、話は千尋の予防接種のことだ。泣かなかったらしい。母はそれを二回言った。
千尋は、痛くなかった、と言った。それから、しゅうにいちゃんも泣かない? と訊いてきた。
泣かない、と答えた。
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父が箸を置いて、一度だけこう言った。
「隣の子、いい子じゃないか」
母は、そうね、と言った。それだけだ。
父はそれ以上続けなかった。茶碗を持ち直して、話は千尋のことに戻った。
父の茶碗は、縁が一箇所だけ欠けている。欠けたところを唇に当てないように、父はいつも同じ向きで持つ。
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九時をすぎてから、ペンの音がした。
母が予定表を書き直している。次の週のぶんだ。
書いては止まり、また書く。途中で消しゴムを使う音がした。紙を押さえる手の音もする。
母が予定表を消しゴムで直すのを、僕はそれまで聞いたことがなかった。母は表を一度で書く人だ。書く前に決まっていて、決まったものを書き写すだけだから、直すところが出ない。
音は二十分くらい続いた。
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ペンの音が止まってからも、台所の明かりは消えなかった。
紙をめくる音がした。表は一枚しかない。めくる紙が無い。
別の帳面があると知ったのは、ずっとあとになる。
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表は次の日の朝、七時前に貼られた。
台所の壁の、冷蔵庫の横だ。前の週のものをはがして、新しいのを貼る。画鋲は四つ使う。左上から時計回りに刺す。
空いていたところが埋まっていた。
読書三十分。ピアノは三十分から四十分になっている。土曜の午後に、漢字の練習が入った。
埋まった枠を上から順に読んで、僕は自分が何かをしたのだと分かった。何をしたのかは、まだ分からない。
僕はその表を、その日のうちに三回読んだ。三回目で全部覚えた。覚えてしまえば、その週はもう考えなくていい。
表の字は、いつもよりわずかに小さい。枠に入れる字数が増えたからだ。
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その週、隣の窓が二回開いた。
一回目は午後だった。名前を呼ばれた。僕は机にいて、返事をしていない。声が届いていないことにするために、鉛筆を止めなかった。
鉛筆の先が紙をこする音は、自分の耳のすぐ内側で鳴る。外の声より近い。近いほうを聞いていれば、遠いほうは無かったことになる。
二回目は次の日の夕方だ。呼ばれ方が短かった。しゅう、とだけ言った。
三回目は無い。
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母はそのことを訊かなかった。
僕が窓を開けないことにも、机から動かないことにも、何も言わない。
言われないほうが、やりやすかった。
やりやすいというのは、決めなくていいということだ。開けないと決めたのではない。開けてはいけないと言われたのでもない。窓が開く音がして、僕が机にいて、それで終わる。
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八月の終わりに、千尋の耳鼻科の日があった。
母は僕にも支度をさせた。紙を五枚と、鉛筆二本と、消しゴムを持たされた。鉛筆が二本なのは、折れたときのためだ。
「これからは、一緒に行きましょう」
診察は三時半の予約で、名前が呼ばれたのは四時十分だった。四十分ある。紙は五枚なので、一枚に八分かけていい計算になる。
待合室の椅子は座面が硬くて、机が無い。紙は膝の上でやった。膝の上だと線がまっすぐにならない。
一枚目の三問目で、字が枠から出た。消しゴムで消して、書き直す。消したあとが少し黒く残る。
残ったところを、指の腹でこすった。こすると余計に広がった。
千尋は隣で絵本を見ていた。母が千尋に持たせたのは絵本だ。千尋には紙が無い。
同じ待合室で、同じ四十分を、僕たちは違うやり方で使っていた。そのことに気づいたのは、この日ではない。
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九月に学校が始まってから、廊下で航とすれ違った。
よう、と言われた。前と同じ言い方だ。手も同じように上げる。肩から先だけを、一度だけ上げる。
怒っていない。訊きもしない。あの三時間のことも、二回の窓のことも、航のほうからは出てこなかった。
変わっていないほうが、こちらには収まりが悪かった。
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次に僕が一人で家にいたのは、三年後だ。
そのときにはもう、行きたい家が無かった。




