第012話 三時間
八月の平日だった。
母が千尋を連れて出かけることになった。千尋の予防接種と、そのあとに買い物だ。予約は二時十五分で、병院までは自転車で二十分かかる。
「四時までには帰るから」
母は玄関でそう言った。一時ちょうどだった。
やることは言い渡してある。公文の紙が十枚。ピアノが三十分。それが終わったら本を読んでいていい。
テレビはつけない。冷蔵庫の麦茶は飲んでいい。火は使わない。
母は出かける前に、麦茶を新しく作った。沸かしたものだと冷ますのが間に合わないので、水出しのパックを二つ入れて、ポットを冷蔵庫の下の段に置いた。
「三時ごろには冷えてるから」
冷えていたかどうかを、僕は確かめていない。
母は千尋を自転車の前に乗せて出ていった。出ていく前に、玄関の靴をそろえた。急いでいるのに、そこだけは省かない。
*
自転車の音が遠くなってから、僕は机に向かった。
時計を見た。一時六分だ。
紙を三枚やった。十分もかからない。一枚に二分弱で、そのうち計算に使っているのは半分もない。残りは名前と日付を書く時間だ。
誰もいない家には、音が三つある。冷蔵庫と、時計の秒針と、外の蝉だ。それ以外に何も無い。
もう一度時計を見た。一時十七分。四時まで、あと二時間四十三分ある。
その数を出してから、出したところで何にもならないことに気づいた。
四枚目を出したところで、隣の窓が開く音がした。
*
「しゅうちゃん」
二階の窓から航が呼んでいた。上半身だけ出している。
「いないの? お母さん」
いない、と答えた。
「四時まで」
言わなくてもいいことを言った。なぜ言ったのかは、いまも分からない。
航はしばらく黙って、それから言った。
「来る?」
*
僕は紙を机の上に伏せた。
伏せてから、角をそろえて、真ん中に置いた。鉛筆を筆箱に戻して、蓋を閉めた。
やりかけのものを全部そろえてから、玄関を出た。
鍵はかけた。かける決まりだからだ。
家と家のあいだの細い通路を通る。夏の通路は、片側の壁が熱い。反対側は日が当たらないので冷たい。両方の壁に手をつけると、右と左で温度が違う。
*
航の家の玄関で、僕は靴を脱いだ。
脱ぐのは初めてだった。
三和土に自分の靴を置いて、それをそろえた。そろえてから上がった。
においがした。前と同じにおいだ。カップ麺と、たばこと、乾いていない洗濯物。
*
居間に入って、最初に目に入ったのは洗濯物だった。
部屋の隅に、たたんでいないものが山になっている。乾いてはいる。ただ、たたまれていない。
台所の流しに、コップが四つと、皿が二枚入っていた。水に浸けてある。浸けてあるということは、誰かがあとでやるつもりだということだ。
冷蔵庫にメモが貼ってあった。マグネットではなく、テープで留めてある。字は大人の字だった。
なにか かって たべて、と書いてある。その下に、千円札が一枚、同じテープで留めてあった。
千円札には、まだ手がついていない。
*
航はそれを見せもしなかったし、隠しもしなかった。
僕がそこを見ていることに気づいて、一度だけ目が合った。それだけだ。
「ゲームやる?」
やる、と答えた。
あのとき、あの紙が何を意味するのかを、僕は考えなかった。
*
エアコンは無い。扇風機が二つ回っていた。
一つは首を振っていて、もう一つは止めてある。止めてあるほうが弟に向いていた。
弟が畳に寝ていた。四歳になっていて、腹を出して寝ている。タオルケットが足のところにたまっていた。
航の家の畳は、うちの畳より目が広い。縁の布が擦り切れていて、糸が出ているところが二箇所ある。踏むと足の裏に当たる。
*
ゲームをやった。
テレビに繋いでやるやつで、僕はやったことがない。コントローラーの持ち方から教わった。左手の親指を十字の真ん中に置く。置く場所が決まっていることに、少し安心した。
音は高い音と低い音が交互に出る。死ぬときだけ、下がっていく音がした。
僕はその音を八回か九回聞いた。
「へたくそ」
航は声を出して笑った。その言い方に、嫌な感じが無かった。
少しできるようになると、航が交代した。航が持つと、下がっていく音が出ない。かわりに、上がっていく音がする。同じ面を三十秒で抜けた。
抜けたあと、こちらを見ずに、次いく? と訊く。
*
「しゅうちゃん、夏休みなにしてんの」
公文と、ピアノと、と言って、そのあとが続かなかった。塾は四年生からだ。まだ行っていない。
「それだけ?」
「あと、本」
航は、へえ、と言った。それだけだ。ばかにしていない。うらやましがってもいない。
僕の一日を、航は三秒で聞き終えた。
*
柱に鉛筆の線が引いてあった。
高さの違う線が五本ある。横に名前と日付が書いてある。航のが三本、弟のが二本だ。いちばん上の線は、いまの航の頭より低い。日付は三年前で止まっていた。
線のところだけ、木の色が濃い。指で触ると、鉛筆の粉がついた。
うちの柱には線が無い。母は僕の背丈を記録帳に書く。四月と十月に測って、前の数字との差を横に書く。柱には傷をつけない。
*
この家には、大人の足音がしない。
うちでは、台所からこちらへ来る足音が聞こえる。速い日と、そうでない日がある。速い日は、たいてい何か言われる。聞こうと思って聞いているのではない。勝手に聞こえる。
航の家でも足音は鳴っていた。弟が裸足で畳を短く走る音。航が台所へ立つ音。その二つだけだ。
三時間のあいだ、僕は一度も玄関のほうを見ていない。
*
途中で航がカップ麺を作った。
棚に同じ種類のものが六つか七つ並んでいた。全部同じ味だ。安いときにまとめて買うのだと思う。
うちの棚には、乾物と、缶詰と、粉が入っている。カップ麺は無い。
二つ作って、一つを僕にくれた。
蓋の内側は銀色だった。湯を注ぐと、その銀色が端から曇っていく。曇りが真ん中まで来るのに少しかかる。
三分と書いてあるのに、航は二分半で開けた。
「かたいほうがうまい」
麺が硬い。噛むと、噛んだところだけが冷たい。スープの表面に油が浮いていて、丸い形が寄ったり離れたりした。
飲むと、舌の奥のほうが少し痛くなる。塩の味だ。
うちなら残す。全部飲んだ。
*
弟が起きてきて、テレビの前に座った。
画面の光が顔に当たって、青くなったり赤くなったりする。何も言わない。時々、航のほうを見る。
航は冷蔵庫の下の段から麦茶のポットを出して、コップに入れて、弟の前に置いた。位置を知っているのは、いつも自分でやっているからだ。
弟がそれをこぼした。航は雑巾を取りに行って、拭いて、雑巾を洗って、干した。全部で一分もかからなかった。声も出さない。こぼれたぶんを、もう一度コップに入れて弟の前に置いた。
僕は座っていた。何もしなかった。手伝おうとも思わなかった。
思わなかったということに気づいたのは、ずっとあとだ。
*
「次は何するの」
僕がそう訊いた。
ゲームが一区切りついたところだった。次の面へ行くのか、別のことをするのかを確かめようとした。
航は寝転がったままだ。
「べつに」
それだけだった。
次が無い、という返事があることを、僕は知らなかった。
*
漫画を出してきた。
うちの本より紙が薄い。めくる音が乾いている。ページの角が丸くなっていて、何度も読まれたものだと分かる。開いたまま置いても、勝手に閉じない。背が割れているからだ。
二巻と五巻と六巻があって、三巻と四巻が無い。無いところは無いまま読む。
僕は読んだ。最後までは読んでいない。
*
畳に寝転がった。
天井に木の模様がある。うちの天井の模様は、四つの節が正方形に並んでいる。航の家のは、節が三つで、一つだけ大きい。
その大きい節を、しばらく見ていた。
何も考えていなかった。
何も考えていない時間というものが、それまでの僕には無かった。いつも次のことがある。次の紙。次の曲。次の予定。
その日は、次が無かった。
*
そのあと何をしたかを、順番に並べられない。
ゲームをやった。何か食べた。弟が何か言った。漫画を読んだ。天井を見た。それがどの順番だったのかが出てこない。
全部が一つの塊になっている。
順番に並べられないという経験が、それまでの僕には無かった。僕はいつも、何時に何をしたかを覚えている人間だ。
*
外が急に暗くなった。
最初の音は、屋根ではなく、庭の物干し竿に当たる音だった。金属の音がして、それから屋根の音になる。
夕立だ。
航が窓を閉めに立った。閉めるときにサッシが途中で引っかかって、一度だけ強く引いた。
その音で、僕は立ち上がった。
「帰る」
「そう」
航はそれだけ言った。引き止めもしないし、まだいいじゃんとも言わない。じゃあな、と言って、また画面のほうを向いた。
玄関で靴を履いた。履くときに、自分の靴がそろえてあるのを見た。自分でそうしたのを思い出した。
また来ていい? とは訊かなかった。
*
通路を走って帰った。
雨が熱い壁に当たって、においが立つ。埃と、コンクリートのにおいだ。
通路は狭いので、雨は真上からしか入らない。濡れたのは肩だけだった。サンダルの中で足の裏が滑る。
家に入って、居間の時計を見た。
四時七分だった。
母はまだ帰っていない。
*
机の紙をやった。
残りの七枚を九分でやった。いつもより速い。手が急いでいるのが自分で分かる。鉛筆の先がいつもより強く紙に当たって、書いた字が濃くなった。はじめの三枚と、あとの七枚では、字の濃さが違う。十枚を並べれば分かるはずだ。母は並べなかった。
四時十六分だった。ピアノの三十分は、どこにも入らない。
蓋を開けて、三分だけ弾いた。布で鍵盤をひとなでしてから閉めた。あとで足せばいいと思った。足すつもりは無い。
髪が濡れているのを、タオルで拭いた。走って帰るあいだに少し濡れていた。
服を着替えて、着替えたものを洗濯かごに入れた。かごの底のほうへ押し込んだ。
*
母は一度も、あの家に行ってはいけないとは言わなかった。
あまり遊ばないでね、と言っただけだ。あまり、というのは、まったく、ではない。だから僕は、決まりを破ったわけではない。
そう考えていた。考えながら、洗濯かごの底に服を押し込んでいた。
*
玄関の音がした。
四時二十分だった。




