第011話 弾いてるだけだよ
ピアノの教室で、その子のレッスンは僕の前の枠だった。
三時半から四時まで。僕が四時から四時半。毎週、廊下で入れ替わる。
ドアが開いて、その子が出てくる。僕が入る。一秒か二秒だ。こんにちはと言う日と、言わない日がある。言わない日のほうが多かった。
入ると、部屋の空気が少し温かい。前の三十分ぶんの熱が残っている。椅子の高さも、その子が合わせたままになっていることがある。
僕は毎回、それを自分の高さに直した。ねじを右側から回して、左側を同じ数だけ回す。四年生のころで、右が二回転半、左が二回転半だ。
四年生になっても、その子の発表会の番号は二番のままだった。
*
六月のある水曜に、母が来られなくなった。
千尋が中耳炎になって、その日のうちに耳鼻科へ行ったほうがいいと言われたらしい。予約が三時半で、ピアノと重なった。
「一人で行ける?」
行ける、と答えた。教室までは自転車で十二分だ。道は覚えている。信号は二つある。
母は出かける前に、僕の自転車の空気を入れた。前のタイヤだけ少し減っていた。ポンプを二十回くらい踏んで、タイヤの横を親指で押して確かめて、それでやめた。
「気をつけてね」
母はそう言って、千尋を自転車の前に乗せて出ていった。出ていく前に、玄関の靴を全部そろえた。急いでいるのに、そこだけは省かない。
僕は五分あとに出た。時間を合わせて出たのではなく、なんとなく待った。
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三時四十分に着いた。
いつもは母が三時四十分に家を出て、四時ちょうどに着く。一人だと早く着いた。急いだつもりはない。信号が両方とも青だっただけだ。
教室のある家は、玄関に鍵がかかっていない。中に入って、廊下の椅子に座って待つ。二つ並んでいて、木でできていて、座面に丸い座布団がのっている。座布団は薄くて、長く座っていると木の縁が当たる。
廊下は暗い。家の北側だから、この時間でも日が当たらない。壁に小さい棚があって、造花が置いてある。埃が積もっていて、色が少しくすんでいた。
ドアの向こうから音がしていた。
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同じ四小節を、その子は何度も弾いていた。
一回目。二回目。三回目。
三回目までは同じに聞こえた。四回目で、最後の音が少しだけ長くなった。五回目でまた元に戻った。六回目で、今度は最初の音が強くなる。
僕は数えていた。二十分のあいだに、その四小節を三十回以上やっていたと思う。
途中で先生の声が入る。ドア一枚を通ってくるので、何を言っているかは分からない。声が入ったあとの一回は、たいてい少し違った。
同じところを三十回やって、飽きないというのが分からなかった。
僕なら、通ったところで次へ行く。通ることが目的だからだ。通ったのにもう一度やるというのは、時間が余っているということになる。あの子の家では、時間が余っているのだろうか。
そう考えて、それはたぶん違うと思い直した。一時間半やっている人の時間は、余っていない。
*
四時ちょうどにドアが開いた。
その子は僕を見て、少し止まった。
いつもならそこで入れ替わるが、その日は先生が中で電話を取っていた。少し待っててね、と中から声がした。
その子は帰らなかった。
鞄を持ったまま、僕の隣の椅子に座った。二つしかない椅子の、もう一つのほうだ。
座ってから鞄の中を見て、何かを探して、探すのをやめた。
髪が少し湿っている。三十分弾いていたからだ。指先が赤かった。左手の小指の付け根に、鉛筆だこに似た硬いところがある。ピアノでそこが硬くなるのかどうかは知らない。
靴下は白くて、くるぶしのところに小さいレースがついていた。発表会の日と同じものだと思う。
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「毎日、どれくらいやってるの」
僕がそう訊いた。
その子はこちらを見た。訊かれると思っていなかったという顔だ。目のところが一度だけ大きくなって、すぐ戻った。
「えー。わかんない」
「一時間半って聞いた」
「だれに」
「お母さん」
その子は少し笑った。笑い方が、大人が笑うときの形に少し似ていた。
「そんなにやってないよ」
それから下を向いて、こう続けた。
「やってるかも」
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僕はもう一度訊いた。
「どうやったら、そんなに練習できるの」
その子は顔を上げなかった。膝の上のスカートのしわを、指で一回だけ伸ばした。
それから言った。
「練習? してるっていうか、弾いてるだけだよ」
*
僕は何も言わなかった。
言葉が出てこなかったのではない。訊くべきことが分からなかった。
弾いているだけ、というのは、やっていないという意味なのか。それとも、やっているものを別の名前で呼んでいるだけなのか。
どちらだとしても、そこから先へ進めない。
僕は毎日三十分弾く。それは練習だ。始めるときに時計を見て、終わるときにもう一度見る。時刻が来ていないのに終わることはないし、来てから続けることもない。
弾いているだけの三十分というものが、どこにあるのか分からなかった。
*
その子は僕の顔を見て、少し笑った。
「へんかな」
「ううん」
「なんかね、やってると、へやのおとがきえるんだよ」
消えるのか、と僕は言った。訊いたのではない。その言葉をそのまま返しただけだ。
その子はうなずいた。
僕には、その状態が無い。
弾いているあいだ、僕にはいつも音が聞こえている。台所の水の音。冷蔵庫。千尋の声。母の足音。それを聞きながら、頭の中で小節を数えている。数えながら弾いて、数え終わると曲が終わる。
消えたことは、一度も無い。
消えないほうが正しいのだと、そのときは思った。音が消えたら、母が呼んでも聞こえないことになる。聞こえなかったら、返事ができない。
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その子は雨の話をはじめた。
昨日、傘を持っていなくて、途中の店の軒下で二十分くらい待ったらしい。犬を連れた人が同じところに入ってきて、その犬が濡れていて、においがすごかった、という話だった。
その話をしているあいだの顔は、さっきまでと違った。口の動きが速い。手も動く。
僕は、うん、と言った。
中でドアが開いて、先生が僕の名前を呼んだ。
その子は立って、鞄を持って、じゃあね、と言って帰った。
じゃあ、なんで弾くの、とは訊かなかった。
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その日のレッスンで、僕は二回、同じところで止まった。
二回目のあとに、先生が手を止めて僕の顔を見た。
「今日、どうかした?」
なんでもないです、と答えた。
先生はそれ以上訊かなかった。指の形を直して、続きをやった。
終わってから気づいた。僕はその日、椅子の高さを直していない。あの子の高さのまま、三十分弾いていた。
二回転半ぶん低かったはずだ。気づかなかった。
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帰り道は下り坂で、こがなくても進む。
一つ目の信号で赤になって、足をついた。ペダルに戻した足が、少し滑った。
その信号は、待つ時間が長い。前に一度、数えたことがある。九十秒ある。九十秒のあいだ、僕はいつも何かを数えている。通る車の台数を数える日もあれば、向かいの店の看板の字を数える日もある。
弾いているだけ、と口の中で言ってみた。
言ってみても、意味が変わらない。
家に着いたのは四時五十分だ。母と千尋はもう帰っていて、千尋が薬を飲んでいた。白い粉薬で、水に溶かしても飲みにくいらしく、母が三回に分けて飲ませている。
母は僕に、ちゃんと行けたかと訊いた。行けた、と答えた。
教室で何があったかは言わなかった。何も起きていないからだ。
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夕食のあと、いつもどおり練習をした。
その日は、三十分が終わったあとに、手を止めなかった。
もう少し弾いてみようと思った。
弾いた。同じ曲を、もう一度最初から。
三分でやめた。
やめたのは、時計を見てしまったからだ。見るつもりはなかった。目が勝手に動いた。三十三分だった。
その数字が出てきた瞬間に、弾いているものが練習に戻った。三十分を三分すぎた練習だ。三分ぶん多くやったことになる。多くやったのなら、それは良いことになる。
良いことになった瞬間に、続けられなくなった。
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もう一度やってみた。
時計を見ないようにして、目を閉じて弾いた。
目を閉じても、頭の中で数えていた。小節の数だ。あと十六小節。あと八小節。数えるのをやめようとすると、指のほうが止まる。
部屋の音は消えなかった。
冷蔵庫が動きだす音がして、台所で水が出て、止まって、千尋が何か言っているのが聞こえた。廊下で母が歩く音もした。速くない足音だった。
全部、聞こえていた。それでも弾けている。聞こえていることと、弾けていることは、僕の中でぶつからない。
ぶつからないというのは、たぶん、どちらにも入っていないということだ。
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母が台所から出てきた。
「まだやってるの」
怒っていない。むしろ、少しうれしそうな声だった。
「もう終わり」
僕は蓋を閉めた。布で鍵盤の上をひとなでしてから閉めた。母がそうするのを見ているからだ。
母はそれ以上何も言わずに、洗い物に戻った。
その日、母は僕が三十三分弾いたことを知らない。三十分だと思っている。僕もそう言わなかった。
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母が来られなかったのは千尋のためだ。それは仕方のないことで、母が悪いわけではない。
ただ、もし母が一緒に来ていたら、僕はあの子と話していない。母がいるところで、僕は自分から誰かに話しかけたことがなかった。
あの三十分は、その年でいちばん長く、家の人が近くにいない時間だった。
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その子がその日に弾いていた曲を、僕は覚えていない。
同じ四小節を三十回以上やっていたことは覚えている。四回目で最後の音が長くなったことも、六回目で最初の音が強くなったことも覚えている。
曲だけが出てこない。
あとで思い出そうとしたことが何度かある。出てこない。ドア一枚を通ってきた音は、輪郭がぼやけていた。
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弾いているだけ、という言葉を、僕はそれから何年も持っていた。
意味は分からないままだ。分からないまま、時々出てきた。中学のときも、高校のときも出てきた。出てくるたびに裏返して、上から見て、下から見て、それでも分からずに戻した。
あの日、僕が訊けなかったことは一つだ。
じゃあ、なんで弾くの。
訊いていたら、その子は何と答えたのか。たぶん、答えなかったと思う。答えるような質問ではない。




