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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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13/25

第011話 弾いてるだけだよ

 ピアノの教室で、その子のレッスンは僕の前の枠だった。


 三時半から四時まで。僕が四時から四時半。毎週、廊下で入れ替わる。


 ドアが開いて、その子が出てくる。僕が入る。一秒か二秒だ。こんにちはと言う日と、言わない日がある。言わない日のほうが多かった。


 入ると、部屋の空気が少し温かい。前の三十分ぶんの熱が残っている。椅子の高さも、その子が合わせたままになっていることがある。


 僕は毎回、それを自分の高さに直した。ねじを右側から回して、左側を同じ数だけ回す。四年生のころで、右が二回転半、左が二回転半だ。


 四年生になっても、その子の発表会の番号は二番のままだった。


            *


 六月のある水曜に、母が来られなくなった。


 千尋が中耳炎になって、その日のうちに耳鼻科へ行ったほうがいいと言われたらしい。予約が三時半で、ピアノと重なった。


 「一人で行ける?」


 行ける、と答えた。教室までは自転車で十二分だ。道は覚えている。信号は二つある。


 母は出かける前に、僕の自転車の空気を入れた。前のタイヤだけ少し減っていた。ポンプを二十回くらい踏んで、タイヤの横を親指で押して確かめて、それでやめた。


 「気をつけてね」


 母はそう言って、千尋を自転車の前に乗せて出ていった。出ていく前に、玄関の靴を全部そろえた。急いでいるのに、そこだけは省かない。


 僕は五分あとに出た。時間を合わせて出たのではなく、なんとなく待った。


            *


 三時四十分に着いた。


 いつもは母が三時四十分に家を出て、四時ちょうどに着く。一人だと早く着いた。急いだつもりはない。信号が両方とも青だっただけだ。


 教室のある家は、玄関に鍵がかかっていない。中に入って、廊下の椅子に座って待つ。二つ並んでいて、木でできていて、座面に丸い座布団がのっている。座布団は薄くて、長く座っていると木の縁が当たる。


 廊下は暗い。家の北側だから、この時間でも日が当たらない。壁に小さい棚があって、造花が置いてある。埃が積もっていて、色が少しくすんでいた。


 ドアの向こうから音がしていた。


            *


 同じ四小節を、その子は何度も弾いていた。


 一回目。二回目。三回目。


 三回目までは同じに聞こえた。四回目で、最後の音が少しだけ長くなった。五回目でまた元に戻った。六回目で、今度は最初の音が強くなる。


 僕は数えていた。二十分のあいだに、その四小節を三十回以上やっていたと思う。


 途中で先生の声が入る。ドア一枚を通ってくるので、何を言っているかは分からない。声が入ったあとの一回は、たいてい少し違った。


 同じところを三十回やって、飽きないというのが分からなかった。


 僕なら、通ったところで次へ行く。通ることが目的だからだ。通ったのにもう一度やるというのは、時間が余っているということになる。あの子の家では、時間が余っているのだろうか。


 そう考えて、それはたぶん違うと思い直した。一時間半やっている人の時間は、余っていない。


            *


 四時ちょうどにドアが開いた。


 その子は僕を見て、少し止まった。


 いつもならそこで入れ替わるが、その日は先生が中で電話を取っていた。少し待っててね、と中から声がした。


 その子は帰らなかった。


 鞄を持ったまま、僕の隣の椅子に座った。二つしかない椅子の、もう一つのほうだ。


 座ってから鞄の中を見て、何かを探して、探すのをやめた。


 髪が少し湿っている。三十分弾いていたからだ。指先が赤かった。左手の小指の付け根に、鉛筆だこに似た硬いところがある。ピアノでそこが硬くなるのかどうかは知らない。


 靴下は白くて、くるぶしのところに小さいレースがついていた。発表会の日と同じものだと思う。


            *


 「毎日、どれくらいやってるの」


 僕がそう訊いた。


 その子はこちらを見た。訊かれると思っていなかったという顔だ。目のところが一度だけ大きくなって、すぐ戻った。


 「えー。わかんない」


 「一時間半って聞いた」


 「だれに」


 「お母さん」


 その子は少し笑った。笑い方が、大人が笑うときの形に少し似ていた。


 「そんなにやってないよ」


 それから下を向いて、こう続けた。


 「やってるかも」


            *


 僕はもう一度訊いた。


 「どうやったら、そんなに練習できるの」


 その子は顔を上げなかった。膝の上のスカートのしわを、指で一回だけ伸ばした。


 それから言った。


 「練習? してるっていうか、弾いてるだけだよ」


            *


 僕は何も言わなかった。


 言葉が出てこなかったのではない。訊くべきことが分からなかった。


 弾いているだけ、というのは、やっていないという意味なのか。それとも、やっているものを別の名前で呼んでいるだけなのか。


 どちらだとしても、そこから先へ進めない。


 僕は毎日三十分弾く。それは練習だ。始めるときに時計を見て、終わるときにもう一度見る。時刻が来ていないのに終わることはないし、来てから続けることもない。


 弾いているだけの三十分というものが、どこにあるのか分からなかった。


            *


 その子は僕の顔を見て、少し笑った。


 「へんかな」


 「ううん」


 「なんかね、やってると、へやのおとがきえるんだよ」


 消えるのか、と僕は言った。訊いたのではない。その言葉をそのまま返しただけだ。


 その子はうなずいた。


 僕には、その状態が無い。


 弾いているあいだ、僕にはいつも音が聞こえている。台所の水の音。冷蔵庫。千尋の声。母の足音。それを聞きながら、頭の中で小節を数えている。数えながら弾いて、数え終わると曲が終わる。


 消えたことは、一度も無い。


 消えないほうが正しいのだと、そのときは思った。音が消えたら、母が呼んでも聞こえないことになる。聞こえなかったら、返事ができない。


            *


 その子は雨の話をはじめた。


 昨日、傘を持っていなくて、途中の店の軒下で二十分くらい待ったらしい。犬を連れた人が同じところに入ってきて、その犬が濡れていて、においがすごかった、という話だった。


 その話をしているあいだの顔は、さっきまでと違った。口の動きが速い。手も動く。


 僕は、うん、と言った。


 中でドアが開いて、先生が僕の名前を呼んだ。


 その子は立って、鞄を持って、じゃあね、と言って帰った。


 じゃあ、なんで弾くの、とは訊かなかった。


            *


 その日のレッスンで、僕は二回、同じところで止まった。


 二回目のあとに、先生が手を止めて僕の顔を見た。


 「今日、どうかした?」


 なんでもないです、と答えた。


 先生はそれ以上訊かなかった。指の形を直して、続きをやった。


 終わってから気づいた。僕はその日、椅子の高さを直していない。あの子の高さのまま、三十分弾いていた。


 二回転半ぶん低かったはずだ。気づかなかった。


            *


 帰り道は下り坂で、こがなくても進む。


 一つ目の信号で赤になって、足をついた。ペダルに戻した足が、少し滑った。


 その信号は、待つ時間が長い。前に一度、数えたことがある。九十秒ある。九十秒のあいだ、僕はいつも何かを数えている。通る車の台数を数える日もあれば、向かいの店の看板の字を数える日もある。


 弾いているだけ、と口の中で言ってみた。


 言ってみても、意味が変わらない。


 家に着いたのは四時五十分だ。母と千尋はもう帰っていて、千尋が薬を飲んでいた。白い粉薬で、水に溶かしても飲みにくいらしく、母が三回に分けて飲ませている。


 母は僕に、ちゃんと行けたかと訊いた。行けた、と答えた。


 教室で何があったかは言わなかった。何も起きていないからだ。


            *


 夕食のあと、いつもどおり練習をした。


 その日は、三十分が終わったあとに、手を止めなかった。


 もう少し弾いてみようと思った。


 弾いた。同じ曲を、もう一度最初から。


 三分でやめた。


 やめたのは、時計を見てしまったからだ。見るつもりはなかった。目が勝手に動いた。三十三分だった。


 その数字が出てきた瞬間に、弾いているものが練習に戻った。三十分を三分すぎた練習だ。三分ぶん多くやったことになる。多くやったのなら、それは良いことになる。


 良いことになった瞬間に、続けられなくなった。


            *


 もう一度やってみた。


 時計を見ないようにして、目を閉じて弾いた。


 目を閉じても、頭の中で数えていた。小節の数だ。あと十六小節。あと八小節。数えるのをやめようとすると、指のほうが止まる。


 部屋の音は消えなかった。


 冷蔵庫が動きだす音がして、台所で水が出て、止まって、千尋が何か言っているのが聞こえた。廊下で母が歩く音もした。速くない足音だった。


 全部、聞こえていた。それでも弾けている。聞こえていることと、弾けていることは、僕の中でぶつからない。


 ぶつからないというのは、たぶん、どちらにも入っていないということだ。


            *


 母が台所から出てきた。


 「まだやってるの」


 怒っていない。むしろ、少しうれしそうな声だった。


 「もう終わり」


 僕は蓋を閉めた。布で鍵盤の上をひとなでしてから閉めた。母がそうするのを見ているからだ。


 母はそれ以上何も言わずに、洗い物に戻った。


 その日、母は僕が三十三分弾いたことを知らない。三十分だと思っている。僕もそう言わなかった。


            *


 母が来られなかったのは千尋のためだ。それは仕方のないことで、母が悪いわけではない。


 ただ、もし母が一緒に来ていたら、僕はあの子と話していない。母がいるところで、僕は自分から誰かに話しかけたことがなかった。


 あの三十分は、その年でいちばん長く、家の人が近くにいない時間だった。


            *


 その子がその日に弾いていた曲を、僕は覚えていない。


 同じ四小節を三十回以上やっていたことは覚えている。四回目で最後の音が長くなったことも、六回目で最初の音が強くなったことも覚えている。


 曲だけが出てこない。


 あとで思い出そうとしたことが何度かある。出てこない。ドア一枚を通ってきた音は、輪郭がぼやけていた。


            *


 弾いているだけ、という言葉を、僕はそれから何年も持っていた。


 意味は分からないままだ。分からないまま、時々出てきた。中学のときも、高校のときも出てきた。出てくるたびに裏返して、上から見て、下から見て、それでも分からずに戻した。


 あの日、僕が訊けなかったことは一つだ。


 じゃあ、なんで弾くの。


 訊いていたら、その子は何と答えたのか。たぶん、答えなかったと思う。答えるような質問ではない。

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