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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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12/25

第010話 二番目に弾く子

```

中村ピアノ教室 発表会


2007年11月18日(日) 13時30分開演

市民文化会館 小ホール



1  山本  凛     ちょうちょう

2  佐倉 実咲     メヌエット ト長調

3  小田切 悠真     かっこう

4  藤田  葵      人形の夢と目ざめ

5  西野  陽菜     エリーゼのために

(中略)

15  高梨 秀真     アラベスク

16  三好  結衣     ソナチネ 第一楽章

17  岡   遥人     貴婦人の乗馬


※終演後、ホール前で記念撮影を行います。

```


```

中村ピアノ教室 発表会


2008年11月16日(日) 13時30分開演

市民文化会館 小ホール



1  寺尾  咲希     ちょうちょう

2  中西 実咲     インディアンの踊り

3  山本  凛     かっこう

4  小田切 悠真     人形の夢と目ざめ

5  藤田  葵      アラベスク

(中略)

18  高梨 秀真     貴婦人の乗馬

19  三好  結衣     ソナチネ 第二楽章

20  岡   遥人     花の歌


※終演後、ホール前で記念撮影を行います。

```


 発表会は秋にある。


 三年生の十一月だった。市民文化会館の小ホールで、席は二百くらいある。開演は一時半で、家を出るのは十二時だ。


 当日は十二時四十分に会場に着く。ロビーに受付があって、そこで名簿に丸をつけてもらう。花が一つ置いてある。生花ではなく、去年と同じものだ。


 リハーサルは無い。舞台を一度も見ないまま本番になる。


 母は前の日に僕の服を出しておいた。白いシャツと、紺の半ズボンと、蝶ネクタイ。蝶ネクタイは去年も使ったもので、首のところのゴムが少し伸びていた。


 母もその日だけ違う服を着る。紺色のスーツで、年に三回くらいしか出てこない。入学式と、発表会と、あとは葬式のときだ。


 髪は前の週に切ってあった。美容院は年に四回行く。行った翌日は、うしろの毛先がまっすぐになっている。


 朝、爪を切った。日曜だからもともと切る日だが、その日は母が指の腹まで見た。ささくれがあると音が変わるらしい。らしい、というのは、母がそう言ったからだ。


            *


 控室に入れるのは一時十分からだ。それより前はロビーで待つ。


 控室は舞台の裏にある。


 窓が無くて、蛍光灯が明るい。長机が二つ並んでいて、そこに楽譜と鞄が置いてある。子どもは十七人いた。付き添いの親は入れない決まりで、先生と、手伝いの人が一人いる。


 部屋の温度が高い。人が多いからだ。半ズボンの子が何人か、床にじかに座っている。


 小さい子ほど早い番号になる。曲が短いからだ。


 僕は十五番だった。前の年は十九番のうち十二番で、その前は八番だった。番号が後ろへ動いていくのが、進んでいるということになる。


 誰も番号の話をしない。でも全員が自分の番号を知っている。


            *


 二番目に弾く子がいた。


 同じ学年だ。教室で会ったことがある。うちの母がその子の母親と挨拶をするのを、廊下で見たことがある。


 入ってきたのが僕より一年遅いから、進度は僕より前のほうにいる。二番というのは、最初の子の次だ。


 その子の練習の量が多いことは知っていた。母が言ったからだ。あの子は毎日一時間半やっているらしい、と母は言った。僕は三十分だ。


 どこでその話を聞いたのかは訊かなかった。教室の廊下で、母親どうしが話す。そこで出た数字が、家まで持って帰られる。うちの三十分も、たぶん同じように誰かの家へ運ばれている。


 三十分で足りているのは、僕のほうが速く進むからだ。そういうことになっていた。


            *


 開演のベルが鳴る。


 控室のスピーカーから、ホールの音が小さく流れてくる。拍手の音は、遠くの雨の音に近い。


 一番の子が弾いた。途中で二回止まって、そのたびに最初から弾き直した。三回目で最後まで行った。拍手が大きい。小さい子には拍手が大きくなる。


 一番の子の演奏が終わったのは、一時四十分ごろだった。


 二番。


 名前が呼ばれて、その子が控室を出ていった。楽譜は持っていかない。暗譜で弾く決まりだ。


 僕はスピーカーの下に座っていた。


 控室で誰がどこに座るかは、番号の順とは関係がない。ただ、後ろの番号の子は、たいてい壁ぎわに固まる。曲が長いぶん、待つ時間も長いからだ。


 十六番の子が、僕の斜め前で楽譜を膝に立てて見ていた。暗譜で弾く決まりなのに、直前まで見る子はいる。見ないのは僕と、あと二人くらいだった。


            *


 メヌエットだった。


 短い曲だ。三分もない。僕は前の年にその曲をやっている。指の動きも覚えている。


 弾きはじめて、七小節目くらいで一度もつれた。左手が遅れて、右手が先に行った。すぐ戻る。そのあと、最後まで止まらなかった。


 うまくはない。


 同じ曲を前の年に弾いているから、どこが難しいかは知っている。七小節目のところは、左手の親指をくぐらせる。そこで遅れるのは珍しくない。僕も最初はそうだった。


 その日いちばん上手かったのは、十七番の子だと思う。中学生で、貴婦人の乗馬を最後まで速く弾いた。


 ただ、二番の音は、ほかの子の音と違って聞こえた。


 どう違うのかは説明できない。速さが違うわけではないし、音の大きさでもない。スピーカーから出てくる音は小さくて、しかも割れている。それでも違って聞こえた。


 あとで考えると、たぶん、止め方だと思う。


 音を出したあと、その音がどこで終わるかを、その子は聞いていた。ほかの子は次の音のことを考えて弾いている。僕もそうだった。


            *


 僕の番は一時間くらいあとだった。二時四十分に呼ばれた。


 舞台に出ると、客席が暗い。ライトが当たっていて、顔は見えない。母がどこにいるかは知っている。前から五列目の、通路側だ。


 椅子の高さを直した。ねじを両側とも回す。母がそうするのを見ているから、同じようにやる。


 アラベスクを弾いた。


 速い曲だ。左手が休まない。僕は一度も止まらなかった。テンポも落とさなかった。


 途中で、自分の指を見ていないことに気づいた。見なくても動く。三十分を何百回か繰り返すと、そうなる。手が勝手に進んでいるあいだ、頭のほうは、次の小節の数を数えていた。


 あと十六小節。あと八小節。数え終わると曲が終わる。


 弾き終わって、手を鍵盤から離して、立って、お辞儀をした。拍手がある。時間にして四秒くらいだ。


 一番の子のときは八秒だった。数えていたわけではない。長かったということだけ覚えている。


            *


 控室に戻ると、二番の子が椅子に座っていた。


 もう終わっているのに、まだ帰らずに、ほかの子の演奏を聞いている。スピーカーのほうを向いていた。膝の上で指が動いている。自分の曲ではない曲の指だ。


 僕はその隣の椅子に座った。二つ空けて座った。


 その子の靴下は白くて、くるぶしのところに小さいレースがついていた。膝の上の指は、細かく動いている。強く押さえるところでは指が少し立って、弱いところでは寝る。弾いていない指が、ちゃんと弾き分けていた。


 何か言おうとして、やめた。


 言おうとしたのは、たぶん、さっきのはよかった、というようなことだ。言わなかったのは、それが本当かどうか自分で確かめられなかったからだと思う。上手いかどうかで言えば、上手くはなかった。


 その子はこちらを見なかった。ずっとスピーカーのほうを向いていた。


            *


 終演は三時半だった。ホールの前で写真を撮る。


 全員が階段に並ぶ。前に小さい子、後ろに大きい子。僕は三列目の右から四番目だ。二番の子は前の列の左端にいた。


 撮る人が三回シャッターを切って、そのたびに「もう一回」と言った。三回目のときに、後ろのほうの子が笑って、それでもう一枚増えた。


 母は下から見ていた。カメラは父が持っている。父は年に一度、この日だけカメラを出す。


 父がその日に来たのは四時前で、演奏には間に合っていない。仕事が入っていたと母が言った。写真だけは撮った。


 撮ったあと、母がその子の母親と話した。ほんの少しだ。三十秒もない。


 その人は背が高くて、髪をうしろで一つに結んでいた。うちの母より若く見えた。話しているあいだ、その人は一度もこちらを見なかった。


 二人が何を話していたのかは聞いていない。母は戻ってきて、こう言った。


 「ちゃんと弾けてたね」


 僕のことなのか、その子のことなのかは、訊かなかった。


            *


 帰りの車で、母は父にプログラムを見せていた。


 番号のところを指でさす。十五番だ。前の年より三つ後ろになっている。父は前を見たまま、そうかと言った。


 母は一度も、何番目だから偉いとは言わなかった。番号の話をしただけだ。番号の話をするということが何を意味するかは、そのとき誰も言葉にしていない。


 千尋は後ろの席で寝ていた。五歳で、二時間じっと座っていたから、それで疲れたのだと思う。母は途中で二回、千尋を連れてロビーへ出た。僕の番のときは席にいた。それは分かる。


 プログラムは家に持ち帰って、母が引き出しにしまった。毎年ぶんが同じ場所に入っている。


            *


 その日弾いた曲を、僕はいまでも覚えている。アラベスクだ。指も覚えている。


 二番の子の曲も覚えている。前の年に自分がやった曲だからだ。ただ、その子の演奏そのものを、いまの僕はもう頭の中で鳴らせない。速さも、強さも、思い出せない。


 覚えているのは、弾き終わったあとのことだ。


 その子は、最後の音を弾いたあと、すぐには手を上げなかった。


 鍵盤の上に指を置いたまま、少し止まっていた。音がホールの天井のほうへ抜けていく。それが消えるまで、その子は動かなかった。


 消えてから、手を上げた。


 ほかの誰も、そんなふうに弾き終わらなかった。僕も、次の年も、その次の年もそうしなかった。

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