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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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11/24

第009話 落ちた子の顔

```

進級一覧    月曜クラス(16:40 送迎バス)


2008年 6月末 現在



氏名        現在の級  合格した月   次の目標


あおき  りく    12級    5月    11級

いのうえ みなみ    8級    6月     7級

たかなし しゅうま   3級    6月     2級

なかむら そうた   14級    1月    13級

はやし  あおい    9級    4月     8級

まつだ  けんと    6級    6月     5級

やまぎし ひろき   14級    1月    13級



※進級テストは毎月最終月曜に行います。

※合格された方には、その場でワッペンをお渡しします。

```


 進級テストは毎月の最後の月曜にある。


 バスは四時四十分に角へ来る。授業は五時から六時までで、テストの日は五時十分ごろに始まる。準備体操を短くするからだ。


 その日だけ、バスの中が静かだ。いつもは後ろの席で誰かが騒いでいるのに、テストの日は窓の外を見ている子が多い。運転手さんはいつもと同じ速さで走る。


 プールは屋内で、天井が高い。入ると耳が塩素に慣れるまでに少しかかる。水の音が壁で跳ね返って、誰が何を言っているのかが分からない。声だけが上のほうに溜まっている。


 更衣室で着替える。ゴーグルのゴムを調節する。締めすぎると目のまわりに跡が残って、一時間くらい消えない。


 シャワーは冷たい。冬でも冷たい。全員が同じ列で頭からかぶって、それからプールへ入る。入った瞬間は冷たくて、二十秒くらいで分からなくなる。


 入口の横に、進級の一覧表が貼ってある。名前が縦に並んでいて、その横に級と、合格した月が書いてある。誰でも見られる場所だ。送り迎えの親は、待っているあいだ、たいていそこに立っている。


            *


 その月、僕は四級だった。


 四級から三級に上がるには、クロールを二十五メートル、決まった時間の中で泳ぐ。フォームも見られる。息継ぎで顔を上げすぎると、それだけで落ちることがあるらしい。らしい、というのは、僕は落ちたことがないからだ。


 テストは級の低い順にやる。だから僕の番はいちばん後ろのほうになる。低い級の子が全部終わるまで、四十分くらい待つことになる。


 その四十分のあいだに、誰が受かって誰が落ちるかは、だいたい分かる。泳ぎを見ていれば分かるからだ。分かっても言わない。言う場面が無い。


 待っているあいだ、プールサイドに並んで座る。床がざらざらしていて、太ももの裏が痛い。前の人の背中を見ている。順番が近づくと、背中が動く回数が増える。


 僕の前は、まつだけんとだった。六級を受ける。合格した。上がってきて、僕とすれ違うときに、手を軽く上げた。


            *


 僕は二十七秒四だった。


 その数字は覚えている。合格の基準が何秒だったのかは覚えていない。


 コーチは二十代の男の人で、いつも日焼けしている。笛を首から下げていて、テストのときは笛を吹かない。手を上げるだけで合図をする。


 コーチが手元の紙に何かを書いて、うなずいた。それで分かった。プールから上がるときに、水が背中を伝って落ちていく。


 見学席は二階にある。ガラス越しに親が見ていて、下からは顔がよく見えない。母がどこに座っているかは知っていた。いつも同じ場所だからだ。


 僕は上を見なかった。見なくても、母がこちらを見ていることは分かる。


            *


 全員のテストが終わると、プールサイドに並ばされる。


 コーチが名簿を持って、一人ずつ名前を呼ぶ。呼ばれた子が前に出る。合格した子にはワッペンが渡される。四角い布で、級ごとに色が違う。三級は緑だ。


 その日、合格したのは五人だった。僕を入れて五人だ。


 落ちたのは二人だった。


 なかむらそうたと、やまぎしひろき。二人とも十四級を受けて、二人とも落ちた。


 なかむらそうたは、普段はよく笑う子だ。バスの中でいちばん騒ぐのがその子で、運転手さんに二回か三回、注意されたことがある。体は僕より大きい。水に入ると、なぜか進まない。


 その子が十四級で止まっているのは、この日で六か月目になる。表を見れば分かることだ。表は入口の横にあるので、その子も毎回それを見て入ってくる。


 コーチは落ちた子の名前も呼ぶ。呼んで、前に出させて、次はここを気をつけようと言う。悪い言い方ではなかった。声も大きくない。二人の肩に手を置いて、それで終わりだ。


 やまぎしひろきは、うなずいて列に戻った。


 なかむらそうたは、戻らなかった。


            *


 その子はプールサイドに立ったまま、ゴーグルを上げなかった。


 顔の上半分がゴーグルで隠れている。水で濡れているから、頬に流れているものが何なのかは分からない。分からないが、口の形が変わっていった。下唇が内側に入って、顎に細かい皺が寄る。


 声は出していない。


 肩が二回、上下した。


 コーチはもう次のことを言っていた。列の子たちは前を向いている。誰もその子を見ていない。


 僕は見ていた。


 見ていたのは僕だけだったと思う。列の子は前を向いていたし、コーチは名簿を見ていた。僕はいちばん端にいて、そこからだとその子の横顔が見える位置だった。


 見ないでいることもできた。前を向けばいいだけだ。僕はそうしなかった。


 なぜ見続けたのかを、いまでも説明できない。


            *


 二階の見学席で、誰かが立ち上がったのが見えた。


 ガラスの向こうで、その人はしばらく立っていた。座り直したのは、少ししてからだ。誰かは分からない。分からないが、その位置は、いつもなかむらそうたの母親が座っているところだった。


 その日の見学席には七人か八人いた。ガラスがあるから、こちらには声が届かない。届かないので、誰が何を言っていたのかも分からなかった。


 母がどこを見ていたのかは、僕は知らない。


            *


 バスは六時五分にプールを出て、六時十五分に角へ着く。


 なかむらそうたは同じバスだった。いちばん前の右の席に座って、窓の外を見ていた。乗るときにはもう泣いていない。


 誰もその話をしなかった。合格した子も、落ちた子の話をしない。しないことになっているわけではない。ただ、誰も始めなかった。


 僕は自分の鞄の中のワッペンを、外から手で押さえていた。四角い形が布ごしに分かる。


 その形を確かめている自分に、途中で気づく。気づいてから手を離した。離したあと、また戻した。


 次はがんばれよ、とは言わなかった。


            *


 家に帰ると、母が玄関にいた。


 ワッペンを出して渡した。母はそれを持って、光にかざすようにして色を見る。それから、三級ねと言った。


 夕食は七時に始まる。食べ終わってから、母はミシンを出さずに、手で縫った。


 裁縫箱は棚の上にある。取り出して、蓋を開けて、糸を選ぶ。緑のワッペンには緑の糸を使う。同じ色の糸が無いときは、いちばん近い色にする。その日は少し明るい緑だった。


 帽子の横に縫いつける。前の月のワッペンの隣だ。並べる順番は決まっていて、上から順に色が変わっていく。


 針が布を通る音は小さい。それでも聞こえる。糸を引くときに、いちばん最後だけ音が変わる。


 母は玉止めを二回した。一回だと取れることがあるからだ。


 縫いつけたあと、母は帽子を裏返して、糸の出ているところを指で確かめた。裏まできれいにするのは、僕には見えない部分だ。プールで帽子をかぶれば、誰にも見えない。


 これで十枚になった。


            *


 母は一度も、落ちたらどうするのとは言わなかった。


 落ちる可能性の話を、家でしたことがない。しなくても済んでいたからだと思う。


 もし落ちていたら、母がどうしたのかは分からない。怒らなかったと思う。怒らない人だからだ。


 ただ、落ちた月の一覧表を、母がどんな顔で見たのかは、想像がつく。


 僕はそのころ、進級テストを、テストだと思っていなかった。行けば上がるものだと思っていた。それは一度も落ちていないからそう思えたのであって、なかむらそうたにとっては別のものだったはずだ。


 同じ日に、同じ場所で、同じ水の中にいて、僕たちは違うものをやっていた。


 僕がやっていたのは、通り抜けることだ。その子がやっていたのは、通り抜けられるかどうかを毎月確かめることだった。


 どちらが本当のテストなのかを、僕はそのとき考えなかった。


            *


 その年の夏、七月のテストで、なかむらそうたは十三級に上がった。


 その日も僕は同じプールにいた。合格したときのその子の顔を、僕は覚えていない。


 覚えているのは、六月の口の形のほうだ。


            *


 スイミングは小学四年生の三月でやめた。


 陸上をやりたいと言ったからで、両方は無理だと母が言った。無理なのは時間の話だ。


 最後の日にも一覧表は貼ってあった。僕の名前は上のほうにある。なかむらそうたの名前は、まだ十四級のところにあった。合格した月の欄は、一月のままだった。


 やめる子の名前は、次の月に表から消える。僕の名前も消えた。


 消えたあとの表を見たことはない。もう行かないからだ。ただ、消えた場所に線が引かれるのか、下の名前が繰り上がるのかを、しばらく考えた。たぶん繰り上がるのだと思う。そのほうが表がきれいになる。


            *


 あの日のことで覚えているものは、いくつかある。


 水の音。ゴーグルの跡。緑の布。玉止めの二回。


 それと、ゴーグルを上げなかった子の口の形だ。


 その子の名前を、僕はいまも言える。同じ日に合格した五人の名前は、一人も出てこない。

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