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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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10/25

第008話 五年通って、一度も

```

通知表  三年二組  高梨 秀真


担任  村瀬 佳織



【一学期 行動の記録・所見】


計算が速く、まわりの子が困っているとそっと教えに行く姿が見られました。係の仕事も最後まできちんとやります。

秀真くんは、自分から手を挙げることが少し少ないようです。

二学期は、思ったことを声に出してみましょう。



【二学期 行動の記録・所見】


学習面はたいへん良好です。テストの平均も学級で上位です。

生活面も問題ありません。

秀真さんは落ち着いて学校生活を送っています。



【三学期 行動の記録・所見】


係の仕事を一年間、一度も忘れずにやりとげました。

給食のとき、こぼした子の机を黙って拭いていたことがあります。

秀真くんは人をよく見ています。

四年生でも、そのままの秀真くんでいてください。

```


 英会話に通いはじめたのは小学二年生の四月だった。


 きっかけは、母がどこかで聞いてきた話だ。これからは英語ができないと、と母は言った。誰が言っていたのかは知らない。ママ友の誰かかもしれないし、テレビかもしれない。


 教室は駅前のビルの四階にある。エレベーターがあって、そこは止まったことがない。二階が歯科で、三階が保険の会社だ。四階まで上がると、廊下に子どもの声が満ちている。


 授業は金曜の六時半から七時半までだった。公文が六時に終わって、自転車で十五分走って、六時二十分ごろに着く。着いてから始まるまでのあいだに、おにぎりを食べる。


 一クラス六人で、僕はいちばん背が低かった。


 月謝は公文より高い。金額を知ったのはあとになってからだ。八月は休みだから、通うのは年に十一か月ぶんになる。五年で五十五か月。それを月謝にかけた数字を、僕は二十を過ぎてから一度だけ計算した。計算したあと、誰にも言っていない。


            *


 先生はニックといった。


 カナダの人だと聞いたが、確かめていない。背が高くて、しゃがむと膝が机の下に入らない。声が大きくて、教室の外の廊下まで聞こえる。


 授業は決まった順番で進む。


 最初に歌をうたう。同じ歌を三か月使って、次の三か月で別の歌になる。


 そのあとがカードだ。りんご、犬、青、木曜日。ニックが一枚ずつ上げて、僕たちが単語を言う。言えたら次へ移る。言えなかったら、もう一度だけ見せて、それでも出てこなければ答えを言って先へ行く。


 それからゲームをする。ビンゴか、椅子取りか、カードを裏返して同じ絵を探すやつだ。ゲームのあいだは英語を使わなくてもいい。使う子はいない。


 最後にもう一度歌をうたって、終わる。


            *


 単語は覚えた。


 二年目には、カードを二百枚くらい言えるようになっていた。動物と、色と、食べ物と、身の回りのもの。数は千まで数えられる。


 文は作れなかった。


 ニックが何かを訊く。僕はその文の中の単語をいくつか聞き取る。聞き取れても、それを組み立てて返すことができない。


 答えられずにいると、ニックは待つ。三秒か、四秒だ。それから笑って、隣の子に同じことを訊く。


 隣の子も答えられない。その次の子も答えられない。誰かが単語を一つだけ言って、ニックが大きくうなずいて、それで先へ進む。


 毎回そうだった。五年間そうだった。


 ニックは日本語も少し話せる。おはよう、ありがとう、じょうずだね、の三つは確実に言えた。授業の中でその三つが出ると、教室の空気がゆるむ。ゆるんだところで、また英語に戻る。


 いま思うと、ニックはよくやっていたのだと思う。六人の子どもを一時間、飽きさせずに座らせておくのは、たぶん難しい。彼が悪いのではない。教室が悪いのでもない。


            *


 教室の壁に、生徒の写真が貼ってあった。


 クリスマスの会と、ハロウィンの会の写真だ。とんがり帽子をかぶった僕が写っている。笑っている。


 母はその写真を、参観のときに見に来て、いいわねえと言った。


 その写真の中の僕は、たしかに笑っている。とんがり帽子のゴムが顎に食い込んでいて、その線まで写っている。


 参観は年に二回ある。始まりは七時で、終わりは八時だ。授業の時間を三十分ずらして、そのぶん遅くまでやる。母は二回とも来た。うしろの壁ぎわに、ほかの母親と並んで立つ。僕は前を向いているから顔は見えない。声だけ聞こえる。授業が終わると、母たちは少し話して帰る。


 その日、母は帰り道でこう言った。


 「ニック先生、ほめてたわよ」


 何をほめていたのかは訊かなかった。


            *


 三年生の三学期の終わりに、通知表をもらった。


 終業式の日で、その日は十一時半に帰る。体育館で校長の話を聞いてから、教室に戻って一人ずつ呼ばれる。前で受け取って、両手で持って、頭を下げる。もらった子から順に、廊下に並んで待つ。


 式のあいだ、体育館の床は冷たかった。三月でもまだ冷える。


 僕は自分のを廊下で開けた。開けてはいけないとは言われていない。


 通知表は二つ折りで、白い厚紙の表紙がついている。開くと、左に成績の欄、右に所見の欄がある。成績のほうは丸の位置を見ればすぐ分かる。三段階で、いちばん上に丸がついている数を数えればいい。


 所見の欄は、読むのに時間がかかる。字が並んでいるだけで、数字が一つも無いからだ。


 三学期のところに、給食のときのことが書いてあった。こぼした子の机を拭いたと書いてある。


 そんなことをした覚えは、僕にはなかった。


 やっていないという意味ではない。たぶんやったのだと思う。ただ、覚えていない。誰かがそれを見ていて、書き留めていて、三か月たってから紙になって返ってきた。


 二学期のことは、あまり覚えていない。


            *


 家に着いたのは十二時十分だった。


 母は昼の支度をしていた。終業式の日は給食が無いので、家で食べる。その日は焼きそばだった。


            *


 食べ終わってから、母に渡した。


 母は流しの前で手を止めて、ふいてから受け取った。所見の欄を、上から下まで読んだ。三つの学期ぶんを続けて読んだ。


 読み終わって、こう言った。


 「よく見てくださってるのね」


 それから、成績の欄のほうを見た。三段階の評価で、いちばん上に丸がついている数を、母は数えたと思う。声には出していない。


 通知表はその日のうちに、机の引き出しにしまわれた。冷蔵庫には貼らない。学校のものは貼らないことになっていた。


 母は一度も、英語ができるようになったかとは訊かなかった。訊く必要がなかったのだと思う。通っている、ということが答えになっていた。


 いま同じ立場になったら、僕も訊かないかもしれない。訊いて、できていないと分かったら、そのあとをどうするかを決めなければならなくなる。決めずに済むほうが、たぶん楽だ。


 母を責めるつもりでこれを書いているのではない。


            *


 英会話は、そのあとも同じ形で続いた。


 四年生になっても、五年生になっても、授業の順番は変わらない。歌、カード、ゲーム、歌。ニックは同じ大きさの声で笑う。


 新しく入ってくる子がいて、やめていく子がいる。六人のうち、五年間ずっと同じだったのは僕を入れて二人だった。


 やめる子は、たいてい急にいなくなる。先週まで座っていた席に、次の週は誰も座っていない。ニックはそのことを説明しない。人数が減ったぶん、カードが一人あたり一枚ずつ増える。


 もう一人は女の子で、五年目には僕より単語を知っていた。その子も文は作れなかった。


 その子の母親も、参観に必ず来ていた。うちの母と並んで立って、終わったあとに少し話す。二人が何を話していたのかは、聞こえる距離にいたはずなのに覚えていない。


 教室でいちばん長くいる二人が、二人とも文を作れない。そのことについて、誰も何も言わなかった。


            *


 五年生のあいだに、僕は一度だけ、家で英語の文を作ろうとしたことがある。


 教科書のようなものは無いので、カードの単語を並べた。犬。走る。公園。並べても、正しいかどうかを確かめる方法がない。合っているかどうかを教えてくれる人が、家にいなかった。


 紙に書いて、そのまま捨てた。捨てたのは覚えている。書いた文は覚えていない。


            *


 六年生の三月に、最後の日が来た。


 中学に上がると部活があるから、そこでやめることになっていた。決めたのは母だ。僕は聞いただけだ。


 その日は六時半に始まって、いつもより短くゲームをやって、七時十分から写真を撮った。壁の写真がまた一枚増えた。


 五年前の写真と、その日の写真が、同じ壁に並ぶことになる。並べて見た人がいるかどうかは知らない。僕は見なかった。


 帰るとき、ニックが僕に手を出した。


 握手をした。手が大きくて、僕の手のひらが半分くらい隠れた。ニックは僕の目を見て、何か言った。


 文だった。単語ではなく、文だ。


 僕はそれを聞き取れなかった。


 「ありがとうございました」


 日本語でそう言った。ニックは笑って、うんうんとうなずいた。うなずき方が、授業のときと同じだった。


            *


 あの日ニックが何と言ったのかを、僕はいまでも知らない。


 単語だけなら拾えたはずだ。拾って、あとで調べることもできたはずだ。そうしなかったのは、たぶん、聞き取ろうとしていなかったからだと思う。


 五年通って、僕は一度も英語で文を作らなかった。


 自転車を停めて、母の車に乗った。母は運転席から後ろを向いて、教室の入口のほうを見ていた。ニックがまだ立っていたのかもしれない。僕は前を向いていたので、見ていない。


 母は、通わせてよかったと言った。


 何がよかったのかは、言わなかった。

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