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自慢の息子  作者: 智珠
第六部 空欄

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104/105

第097話 埋める欄が無い

 大学の講義は、九十分で一コマになる。


 一年の前期は、週に十四コマ取った。学科の必修が八つで、あとが選択だ。


 教室は、大きいものが二百四十席、小さいものが五十四席ある。


 こちらは、大きいほうでは前から三列目、小さいほうでは二列目に座った。


 一コマ目は九時から始まる。四コマ目が終わるのは十六時十分になる。


 家からは自転車で十四分だ。八時二十分に出ると、四十分前に着く。


 四十分前に着くのは、九年やってきた形になる。誰にも言われていない。


            *


 座る位置は、四年間変えていない。


 変える理由が出てこないからになる。理由が無いと、手は同じ場所へ行く。


 同じ場所に座る人は、こちらのほかにも何人かいた。


 顔は覚えたが、名前は最後まで一つも知らない。


 こちらの名前も、たぶん誰にも覚えられていない。


 当たり前のことになる。名乗る場面が四年で一度も来なかった。


            *


 板書は、全部写した。


 黒板に出たものは、日付も、記号も、消し忘れの線まで写す。


 一コマで、ノートが四ページから六ページになる。


 前期の終わりで、ノートは五冊使った。一冊が八十ページある。


 四百ページのうち、あとで開いたのは六十ページほどだ。


 残りの三百四十ページは、書いたきりになる。


 せっかく写したものの、八割以上は一度も読み返していない。


            *


 まわりの人は、あまり写していない。


 写真を撮る人が多かった。前から三列目で数えると、二十人のうち十四人が撮る。


 撮る人は、そのあと画面を見ない。しまって、話をしている。


 写した紙と、撮った画像の差が何なのかは、こちらには出せない。


            *


 高校までの紙には、答えの欄がある。


 欄があると、そこに入るものが一つに決まっている。


 決まっているので、合っているかどうかが出る。出れば、点になる。


 点になれば、順位になる。九年、その順で動いてきた。


            *


 大学の紙には、その欄が無い。


 レポートには字数の指定がある。二千字以上、というやつだ。


 字数は数えられる。数えられるので、そこはできる。


 できるのに、中に何を入れるかが決まらない。


            *


 物理実験は、二年の前期からあった。


 週に一回で、三時間半かかる。班は四人で、名簿順に決まっている。


 レポートは、実験のたびに出す。全部で十二回あった。


 書く項目は、目的、方法、結果、考察、参考文献の五つになる。


            *


 目的は、テキストに書いてある。


 方法も、テキストの手順をなぞればいい。


 結果は、測った数をそのまま並べる。表にして、誤差を出す。


 ここまでは、一つも詰まらない。むしろ速い。


 三時間半の実験のうち、書く作業は五十分ほどで終わる。


 残りの時間は、班の三人が話しているのを聞いていた。


 聞いていて、一度も入っていない。入る形をやはり持っていない。


            *


 考察のところで、手が止まる。


 止まるのは、毎回になる。十二回とも同じところで止まった。


 止まっている時間を測ったら、一回目が四十分だった。


 二回目が三十五分で、三回目が四十二分になる。慣れていない。


            *


 結果は書ける。考察が書けない。


 二つの違いを、こちらはしばらく分かっていなかった。


 結果は、出たものを写すことになる。写すのは九年やってきた。


 考察は、出たものについて自分が思ったことを書くことになるらしい。


            *


 らしい、というのは、テキストにそう書いてあるからだ。


 自分の考えを述べよ、と印刷してある。


 述べよ、と言われて、述べるものが出てこない。


 出てこないので、こちらは結果をもう一度言い換えて入れた。


            *


 三回目のレポートに、赤が入って返ってきた。


 助教の字で、考察の欄の横に一行だけ書いてある。


            *


 結果と考察が同じことを言っています


            *


 その一行を、僕はいまでも書ける。恥ずかしいとは、そのとき思っていない。


 字の大きさも、書いてあった位置も出せる。右の余白の、上から二行目になる。


 言われたのは、それだけだった。呼ばれてもいないし、説明もされていない。


 次の週の実験で、助教はこちらの班に普通に来た。


            *


 どう違うんですか、と訊こうとした。


            *


 四回目からは、書き方を変えた。


 変えたというより、参考文献を先に読んで、そこの文を組み替えて入れる。


 組み替えるのは得意になる。九年、そこをやってきた。


 赤は、四回目から入らなくなった。


            *


 入らなくなったので、そのやり方を十二回目まで続けた。


 点は、十二回とも満点に近い。合計で百二十点のうち百十四点だった。


 書けるようになったわけではない。入らない形を見つけただけになる。


 見つけたことを、こちらはそのころ上達だと思っていた。


 ちゃんと点が出ているので、間違ってはいない。


 間違っていないのに、書けるようにはならなかった。


 二つが同時に成り立つのを、こちらはそこで初めて見ている。


            *


 順位は、大学では出ない。


 成績は、AとBとCとDで来る。点も出るが、並べたものが配られない。


 GPAという数がある。四点満点で、一年の前期は三・二一だった。


 三・二一が上から何番目なのかは、どこにも出ていない。


            *


 二年の後期までのGPAを、順に書いておく。


 一年の前期が三・二一で、後期が三・三四になる。


 二年の前期が三・二九、後期が三・三八だ。


 四つとも、〇・一七の幅の中に入っている。


 動かないものを四回並べて、それでも並べたのがこちらになる。


            *


 推定しようとしたことがある。


 学科は百二十人で、成績の分布が学生便覧に載っている。


 載っているのは学部全体のもので、学科ごとではない。


 全体でやると、上から三割あたりに入る。三割の中の位置は出ない。


            *


 出ないものを、こちらは二年の五月まで探した。


 探して、無いと分かった。無いのが普通なのだと、そこで知る。


 知ってから、探すのをやめた。やめた日は、五月十九日になる。


 やめた日だけ、はっきり覚えている。


 やめてから、その代わりに何を数えるかを探した。


 見つかったのは、コマ数と、ページ数と、実験の回数になる。


 三つとも、位置の出ない数だ。位置の出ない数を数えるのは、その年が初めてになる。


            *


 出席票というものが、大学にはある。


 名前と学籍番号を書いて、裏に自由記述の欄がついているものが多い。


 質問や感想があれば書いてください、と印刷してある。


 欄は、四行から六行ある。


            *


 その欄を、こちらは一年の前期に一度も埋めなかった。


 埋めなかったのではない。埋めるものが出てこない。


 九年間、空欄を作らないでやってきた手が、そこでは動かなかった。


 動かない紙を、毎週八枚ずつ出していたことになる。


            *


 埋めていないのを、だらしないとは思っていない。


 だらしないなら、埋め方が決まる。決まっていれば、手が先に動く。


 九年、決まっているものだけを埋めてきた。


 決まっていないものが来たときに、こちらの手は止まる。


            *


 世間では、大学は自分で学ぶところだと言うらしい。


 興味のあることをやりなさい、と入学式でも言われた。


 普通は、そこで何かを選ぶものになる。


 選び方を、こちらは九年間習っていない。


 立派な理由で選んでいる人が、まわりに何人かいた。


 訊けば、たぶん教えてくれる。訊いていないので、確かめようが無い。


            *


 実家からは、二か月に一度くらい荷物が来た。


 米が五キロ、レトルトが六つ、缶詰が四つ入っている。


 あとは、洗剤と、乾電池と、絆創膏になる。


 送り状の品名の欄には、しっかりと食品、と書いてあった。


            *


 箱の中に、こちらが頼んでいないものが一つ入っている。


 毎回違うものになる。夏は保冷剤で、秋は使い捨てのカイロだった。


 冬は、湯たんぽが入っていた。使い方の紙が付いている。


 紙には、母の字で一行だけ足してあった。低い温度でも使えます、になる。


            *


 母の字が箱の中に入っていたのは、その一回だけだ。


 あとは、送り状の宛名だけになる。宛名の字も、九年変わっていない。


 箱は、こちらが全部たたんで捨てた。たたみ方は、母のやり方と同じになる。


 同じやり方を、教わった覚えは無い。


            *


 母は一度も、成績のことを訊かなかった。


            *


 GPAという語を、家では一度も使っていない。


 説明する場面が来ないからになる。来ないので、数だけがこちらに残る。


 残った数を、こちらは学期ごとにきちんと記録した。


 記録した紙は、机の右の引き出しに入っている。


            *


 その引き出しには、去年の秋の紙も入っていた。


 欲しいもの、と書いて、番号が一から十まで並んでいる紙になる。


 十個とも、まだ空欄のままだった。


 二つの紙が同じ引き出しに入っていることに、そのときは触れていない。


 触れると、並べる話になる。並べたところで、出るものが無い。


            *


 埋めるものが無い紙を、九年ぶりに見た。

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