第097話 埋める欄が無い
大学の講義は、九十分で一コマになる。
一年の前期は、週に十四コマ取った。学科の必修が八つで、あとが選択だ。
教室は、大きいものが二百四十席、小さいものが五十四席ある。
こちらは、大きいほうでは前から三列目、小さいほうでは二列目に座った。
一コマ目は九時から始まる。四コマ目が終わるのは十六時十分になる。
家からは自転車で十四分だ。八時二十分に出ると、四十分前に着く。
四十分前に着くのは、九年やってきた形になる。誰にも言われていない。
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座る位置は、四年間変えていない。
変える理由が出てこないからになる。理由が無いと、手は同じ場所へ行く。
同じ場所に座る人は、こちらのほかにも何人かいた。
顔は覚えたが、名前は最後まで一つも知らない。
こちらの名前も、たぶん誰にも覚えられていない。
当たり前のことになる。名乗る場面が四年で一度も来なかった。
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板書は、全部写した。
黒板に出たものは、日付も、記号も、消し忘れの線まで写す。
一コマで、ノートが四ページから六ページになる。
前期の終わりで、ノートは五冊使った。一冊が八十ページある。
四百ページのうち、あとで開いたのは六十ページほどだ。
残りの三百四十ページは、書いたきりになる。
せっかく写したものの、八割以上は一度も読み返していない。
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まわりの人は、あまり写していない。
写真を撮る人が多かった。前から三列目で数えると、二十人のうち十四人が撮る。
撮る人は、そのあと画面を見ない。しまって、話をしている。
写した紙と、撮った画像の差が何なのかは、こちらには出せない。
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高校までの紙には、答えの欄がある。
欄があると、そこに入るものが一つに決まっている。
決まっているので、合っているかどうかが出る。出れば、点になる。
点になれば、順位になる。九年、その順で動いてきた。
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大学の紙には、その欄が無い。
レポートには字数の指定がある。二千字以上、というやつだ。
字数は数えられる。数えられるので、そこはできる。
できるのに、中に何を入れるかが決まらない。
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物理実験は、二年の前期からあった。
週に一回で、三時間半かかる。班は四人で、名簿順に決まっている。
レポートは、実験のたびに出す。全部で十二回あった。
書く項目は、目的、方法、結果、考察、参考文献の五つになる。
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目的は、テキストに書いてある。
方法も、テキストの手順をなぞればいい。
結果は、測った数をそのまま並べる。表にして、誤差を出す。
ここまでは、一つも詰まらない。むしろ速い。
三時間半の実験のうち、書く作業は五十分ほどで終わる。
残りの時間は、班の三人が話しているのを聞いていた。
聞いていて、一度も入っていない。入る形をやはり持っていない。
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考察のところで、手が止まる。
止まるのは、毎回になる。十二回とも同じところで止まった。
止まっている時間を測ったら、一回目が四十分だった。
二回目が三十五分で、三回目が四十二分になる。慣れていない。
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結果は書ける。考察が書けない。
二つの違いを、こちらはしばらく分かっていなかった。
結果は、出たものを写すことになる。写すのは九年やってきた。
考察は、出たものについて自分が思ったことを書くことになるらしい。
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らしい、というのは、テキストにそう書いてあるからだ。
自分の考えを述べよ、と印刷してある。
述べよ、と言われて、述べるものが出てこない。
出てこないので、こちらは結果をもう一度言い換えて入れた。
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三回目のレポートに、赤が入って返ってきた。
助教の字で、考察の欄の横に一行だけ書いてある。
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結果と考察が同じことを言っています
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その一行を、僕はいまでも書ける。恥ずかしいとは、そのとき思っていない。
字の大きさも、書いてあった位置も出せる。右の余白の、上から二行目になる。
言われたのは、それだけだった。呼ばれてもいないし、説明もされていない。
次の週の実験で、助教はこちらの班に普通に来た。
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どう違うんですか、と訊こうとした。
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四回目からは、書き方を変えた。
変えたというより、参考文献を先に読んで、そこの文を組み替えて入れる。
組み替えるのは得意になる。九年、そこをやってきた。
赤は、四回目から入らなくなった。
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入らなくなったので、そのやり方を十二回目まで続けた。
点は、十二回とも満点に近い。合計で百二十点のうち百十四点だった。
書けるようになったわけではない。入らない形を見つけただけになる。
見つけたことを、こちらはそのころ上達だと思っていた。
ちゃんと点が出ているので、間違ってはいない。
間違っていないのに、書けるようにはならなかった。
二つが同時に成り立つのを、こちらはそこで初めて見ている。
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順位は、大学では出ない。
成績は、AとBとCとDで来る。点も出るが、並べたものが配られない。
GPAという数がある。四点満点で、一年の前期は三・二一だった。
三・二一が上から何番目なのかは、どこにも出ていない。
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二年の後期までのGPAを、順に書いておく。
一年の前期が三・二一で、後期が三・三四になる。
二年の前期が三・二九、後期が三・三八だ。
四つとも、〇・一七の幅の中に入っている。
動かないものを四回並べて、それでも並べたのがこちらになる。
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推定しようとしたことがある。
学科は百二十人で、成績の分布が学生便覧に載っている。
載っているのは学部全体のもので、学科ごとではない。
全体でやると、上から三割あたりに入る。三割の中の位置は出ない。
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出ないものを、こちらは二年の五月まで探した。
探して、無いと分かった。無いのが普通なのだと、そこで知る。
知ってから、探すのをやめた。やめた日は、五月十九日になる。
やめた日だけ、はっきり覚えている。
やめてから、その代わりに何を数えるかを探した。
見つかったのは、コマ数と、ページ数と、実験の回数になる。
三つとも、位置の出ない数だ。位置の出ない数を数えるのは、その年が初めてになる。
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出席票というものが、大学にはある。
名前と学籍番号を書いて、裏に自由記述の欄がついているものが多い。
質問や感想があれば書いてください、と印刷してある。
欄は、四行から六行ある。
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その欄を、こちらは一年の前期に一度も埋めなかった。
埋めなかったのではない。埋めるものが出てこない。
九年間、空欄を作らないでやってきた手が、そこでは動かなかった。
動かない紙を、毎週八枚ずつ出していたことになる。
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埋めていないのを、だらしないとは思っていない。
だらしないなら、埋め方が決まる。決まっていれば、手が先に動く。
九年、決まっているものだけを埋めてきた。
決まっていないものが来たときに、こちらの手は止まる。
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世間では、大学は自分で学ぶところだと言うらしい。
興味のあることをやりなさい、と入学式でも言われた。
普通は、そこで何かを選ぶものになる。
選び方を、こちらは九年間習っていない。
立派な理由で選んでいる人が、まわりに何人かいた。
訊けば、たぶん教えてくれる。訊いていないので、確かめようが無い。
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実家からは、二か月に一度くらい荷物が来た。
米が五キロ、レトルトが六つ、缶詰が四つ入っている。
あとは、洗剤と、乾電池と、絆創膏になる。
送り状の品名の欄には、しっかりと食品、と書いてあった。
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箱の中に、こちらが頼んでいないものが一つ入っている。
毎回違うものになる。夏は保冷剤で、秋は使い捨てのカイロだった。
冬は、湯たんぽが入っていた。使い方の紙が付いている。
紙には、母の字で一行だけ足してあった。低い温度でも使えます、になる。
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母の字が箱の中に入っていたのは、その一回だけだ。
あとは、送り状の宛名だけになる。宛名の字も、九年変わっていない。
箱は、こちらが全部たたんで捨てた。たたみ方は、母のやり方と同じになる。
同じやり方を、教わった覚えは無い。
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母は一度も、成績のことを訊かなかった。
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GPAという語を、家では一度も使っていない。
説明する場面が来ないからになる。来ないので、数だけがこちらに残る。
残った数を、こちらは学期ごとにきちんと記録した。
記録した紙は、机の右の引き出しに入っている。
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その引き出しには、去年の秋の紙も入っていた。
欲しいもの、と書いて、番号が一から十まで並んでいる紙になる。
十個とも、まだ空欄のままだった。
二つの紙が同じ引き出しに入っていることに、そのときは触れていない。
触れると、並べる話になる。並べたところで、出るものが無い。
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埋めるものが無い紙を、九年ぶりに見た。




