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自慢の息子  作者: 智珠
第六部 空欄

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第098話 時給

 バイトを始めたのは、二年の五月八日だった。


 物流の倉庫で、夜のあいだの仕分けになる。


 週に三回で、一回が六時間だ。二十二時から四時までになる。


 時給は千百二十円で、深夜のぶんが乗ると千四百円になる。


            *


 決めたのは、こちらになる。


 母には言っていない。父にも、千尋にも言わなかった。


 言っていないのは、隠したからではない。言う場面が来なかっただけだ。


 来なかった、と書くと逃げに見える。逃げているのかどうかは分からない。


            *


 応募は、四月の終わりにやった。


 求人を三十七件見て、条件で絞ると九件になる。


 九件のうち、家から三十分以内が四件だった。


 四件に電話をして、二件で面接になる。決めたのは、時給の高いほうだ。


 選ぶのに、四日かかっている。絞る作業だけは、九年やってきた形で速い。


            *


 面接は十五分で終わった。


 訊かれたのは、入れる曜日と、体力と、続けられるかの三つになる。


 三つとも答えられる。ちゃんと答えたつもりだった。


 志望動機は訊かれていない。訊かれたら、また出てこなかったと思う。


 立派な理由が要らない場所があると知ったのは、そこになる。


            *


 理由は、時間が空いていたからになる。


 二年の前期は、週に十コマだった。一年より四コマ少ない。


 空いたぶんを、こちらはまた表にした。空欄が六十一個ある。


 六十一個のうち、夜の十八個が埋まることになった。


            *


 欲しいものがあって始めたのではない。


 九月の紙は、まだ空欄のままだった。番号が一から十まで並んでいる。


 欲しいものが無いのに、金を得る仕事を始めている。


 順序がおかしいことに、そのころは気づいていなかった。


            *


 仕事の中身は、単純だった。


 流れてくる荷物を、行き先の番号ごとに分ける。番号は八十七ある。


 一つの箱に、伝票が貼ってある。上から三行目に地域の番号が来る。


 その番号を見て、対応する台車へ載せる。それだけになる。


 伝票はきちんと見る。見間違えると、行き先が変わってしまう。


 箱はしっかり持つ。落とすと、中で音がする。音がした箱は、別の棚へ回る。


            *


 初日で、一時間に百六十個やった。


 二日目が百九十で、三日目が二百十になる。


 一週間目の終わりで、二百四十を超えた。


 その数を、こちらは毎回数えている。数えろとは言われていない。


 数えるのが当たり前になっていて、やめる理由が出てこない。


            *


 まわりの人は、数えていない。


 訊いたわけではない。数えている人の手つきは、こちらには分かる。


 同じ班に十四人いて、数えているのは一人もいなかった。


 いないので、こちらの数は誰とも比べられない。


            *


 六月に、社員の人が声をかけてきた。


 三十代くらいで、名札に苗字だけ入っている。


 速いね、と言われた。それが、こちらの仕事について言われた最初の言葉になる。


            *


 一時間で二百四十個です、と答えた。


            *


 その人は笑った。


 笑ったのは、たぶん馬鹿にしたのではない。声の高さで分かる。


 そう、そういうことじゃなくて、と言って、そのまま行った。


 どういうことなのかは、そのとき出てこなかった。


 笑われたことを、恥ずかしいとは思っていない。


 思っていないのに、そのやりとりだけを二年たっても覚えている。


            *


 速いね、というのは、数の話ではないらしい。


 数の話でないなら、何の話なのかが分からない。


 分からないものを、こちらはあとで三日考えた。


 考えて、結局、数のほうに戻している。


            *


 七月に、時給が四十円上がった。


 千百二十円が千百六十円になる。深夜のぶんを入れると千四百五十円だ。


 上げると言われたのは、その社員の人からだった。


 紙が一枚出て、そこに新しい額が印刷してある。


            *


 紙を見て、こちらはすぐに計算した。


 週に十八時間で、月に七十二時間ある。四十円上がると、月に二千八百八十円になる。


 年で三万四千五百六十円だ。


 計算が出るまでに、四秒かからなかった。


            *


 速いね、が何の話か分からなかったものが、四十円になって出てきた。


 四十円は分かる。数だからになる。


 分かるほうだけが残って、分からないほうは残らない。


 九年、その形で来ている。


 せっかく上がった四十円を、使う先はやはり無い。


 無いままにしておくのを、情けないとも思わなかった。


            *


 入ってくる金の使い道は、無かった。


 仕送りは、そのまま毎月来ている。額は変わっていない。


 家賃も、そこから出ている。バイトのぶんは、通帳に積まれるだけになる。


 二年の終わりで、四十一万二千円たまっていた。


            *


 四十一万二千円で、こちらが買ったものは三つある。


 自転車の後ろの荷台と、電気ケトルと、長靴になる。


 荷台が四千八百円、ケトルが二千九百円、長靴が三千二百円だ。


 三つで一万九百円になる。四十一万二千円のうちの、二・六パーセントにあたる。


 三つとも、必要なものだった。欲しいものではない。


 必要なものを選ぶのは速い。母のやり方と同じになる。


            *


 欲しいものを選ぶほうは、やはり出てこない。


 金があると出てくるのかと思っていた。出てこなかった。


 出てこないのを、だらしないとは思っていない。


 だらしないなら、直し方が決まる。決まっていれば、こちらの手は動く。


            *


 二年目のバイトも、週に三回のままにした。


 入った回数は、二年の五月から三年の九月までで二百十一回になる。


 時間にすると、千二百六十六時間だ。


 仕分けた箱の数は、こちらの記録に残っている。合わせて三十万個を超えていた。


            *


 倉庫の音は、四種類ある。


 ベルトが回る音と、箱が当たる音と、テープを切る音と、台車の車輪になる。


 テープを切る音は、人によって長さが違う。


 いちばん短いのは、こちらの右にいた人だった。〇・四秒くらいになる。


            *


 車輪の音で、誰が来るかが分かるようになった。


 台車ごとに、片方の車輪が鳴る。鳴り方が違う。


 九台あって、九台とも区別がついた。ついたのは、二週間目からになる。


 誰にも言っていない。言う場面が来ない。


            *


 台所からの足音と、やり方が同じだった。


 九年、家でやってきたことが、そのまま倉庫で働いている。


 働いていることを、こちらはそのころ何とも思っていない。


 思っていないので、便利だとも考えなかった。


            *


 夜勤のあと、家に着くのは四時四十分ごろになる。


 寝るのは五時で、起きるのは十時二十分だ。


 講義がある日は、九時に起きて、そのまま出る。


 睡眠は、その年で平均四時間五十分になった。前の年より一時間二十分短い。


            *


 短くなったことを、家では言っていない。


 夜の連絡には、いつもどおり返している。返す時刻がずれた日が二十九日ある。


 二十九日とも、母は何も書いてこなかった。


 気をつけなさい、とも出ていない。九年で一度も来ていない言い方になる。


 書いてこないので、ずれたことは起きていないことになる。


            *


 夏に実家へ帰ったとき、母は手を見た。


 箱を持つと、指の付け根が硬くなる。皮が厚くなって、色が変わっていた。


 母は、何も言わない。見て、それだけになる。


            *


 何か言ってくれませんか、と訊こうとした。


            *


 次の箱に、ハンドクリームが入っていた。


 九月に届いたぶんになる。頼んでいないものは、毎回一つだ。


 その回は、それだった。使い方の紙は付いていない。


 付けなくても分かるからだと思う。思うだけで、これも確かめていない。


            *


 母は一度も、何のバイトなのと訊かなかった。


            *


 訊かれていないのは、言っていないからになる。


 言っていないのに、手を見て、次の月にあれが入ってくる。


 順番が、九年前と同じだった。こちらが言う前に、物のほうが先に来る。


 先に来るものを、こちらはいつも受け取っている。


            *


 世間では、バイトは社会を知る場所だと言うらしい。


 人と関わって、視野が広がる。普通は、そういうことになっている。


 こちらは、二年やって、名前を覚えた人が三人になる。


 三人とも、名札で覚えた。口で名乗られたのは一人もいない。


 こちらから名乗ったこともない。訊かれなかったからになる。


 訊かれないものは出さない。九年やってきたやり方が、そこでも同じに働いた。


            *


 やめたのは、三年の九月になる。


 やめる日を決めたのは、こちらだ。決めた日を、いまでも言える。


 理由は、就職の準備が始まるからになる。それも自分で決めた。


 二つとも自分で決めたのに、決めたという感じが出てこない。


            *


 出てこないのは、たぶん比べるものが無いからだと思う。


 九年、決められた形の中で動いてきた。


 中で動くのと、外で決めるのが、身体のどこで違うのかを知らない。


 知らないので、同じ手つきで両方やっている。


            *


 一時間いくら、というのは、いちばん分かりやすい数だった。

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