第098話 時給
バイトを始めたのは、二年の五月八日だった。
物流の倉庫で、夜のあいだの仕分けになる。
週に三回で、一回が六時間だ。二十二時から四時までになる。
時給は千百二十円で、深夜のぶんが乗ると千四百円になる。
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決めたのは、こちらになる。
母には言っていない。父にも、千尋にも言わなかった。
言っていないのは、隠したからではない。言う場面が来なかっただけだ。
来なかった、と書くと逃げに見える。逃げているのかどうかは分からない。
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応募は、四月の終わりにやった。
求人を三十七件見て、条件で絞ると九件になる。
九件のうち、家から三十分以内が四件だった。
四件に電話をして、二件で面接になる。決めたのは、時給の高いほうだ。
選ぶのに、四日かかっている。絞る作業だけは、九年やってきた形で速い。
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面接は十五分で終わった。
訊かれたのは、入れる曜日と、体力と、続けられるかの三つになる。
三つとも答えられる。ちゃんと答えたつもりだった。
志望動機は訊かれていない。訊かれたら、また出てこなかったと思う。
立派な理由が要らない場所があると知ったのは、そこになる。
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理由は、時間が空いていたからになる。
二年の前期は、週に十コマだった。一年より四コマ少ない。
空いたぶんを、こちらはまた表にした。空欄が六十一個ある。
六十一個のうち、夜の十八個が埋まることになった。
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欲しいものがあって始めたのではない。
九月の紙は、まだ空欄のままだった。番号が一から十まで並んでいる。
欲しいものが無いのに、金を得る仕事を始めている。
順序がおかしいことに、そのころは気づいていなかった。
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仕事の中身は、単純だった。
流れてくる荷物を、行き先の番号ごとに分ける。番号は八十七ある。
一つの箱に、伝票が貼ってある。上から三行目に地域の番号が来る。
その番号を見て、対応する台車へ載せる。それだけになる。
伝票はきちんと見る。見間違えると、行き先が変わってしまう。
箱はしっかり持つ。落とすと、中で音がする。音がした箱は、別の棚へ回る。
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初日で、一時間に百六十個やった。
二日目が百九十で、三日目が二百十になる。
一週間目の終わりで、二百四十を超えた。
その数を、こちらは毎回数えている。数えろとは言われていない。
数えるのが当たり前になっていて、やめる理由が出てこない。
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まわりの人は、数えていない。
訊いたわけではない。数えている人の手つきは、こちらには分かる。
同じ班に十四人いて、数えているのは一人もいなかった。
いないので、こちらの数は誰とも比べられない。
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六月に、社員の人が声をかけてきた。
三十代くらいで、名札に苗字だけ入っている。
速いね、と言われた。それが、こちらの仕事について言われた最初の言葉になる。
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一時間で二百四十個です、と答えた。
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その人は笑った。
笑ったのは、たぶん馬鹿にしたのではない。声の高さで分かる。
そう、そういうことじゃなくて、と言って、そのまま行った。
どういうことなのかは、そのとき出てこなかった。
笑われたことを、恥ずかしいとは思っていない。
思っていないのに、そのやりとりだけを二年たっても覚えている。
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速いね、というのは、数の話ではないらしい。
数の話でないなら、何の話なのかが分からない。
分からないものを、こちらはあとで三日考えた。
考えて、結局、数のほうに戻している。
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七月に、時給が四十円上がった。
千百二十円が千百六十円になる。深夜のぶんを入れると千四百五十円だ。
上げると言われたのは、その社員の人からだった。
紙が一枚出て、そこに新しい額が印刷してある。
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紙を見て、こちらはすぐに計算した。
週に十八時間で、月に七十二時間ある。四十円上がると、月に二千八百八十円になる。
年で三万四千五百六十円だ。
計算が出るまでに、四秒かからなかった。
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速いね、が何の話か分からなかったものが、四十円になって出てきた。
四十円は分かる。数だからになる。
分かるほうだけが残って、分からないほうは残らない。
九年、その形で来ている。
せっかく上がった四十円を、使う先はやはり無い。
無いままにしておくのを、情けないとも思わなかった。
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入ってくる金の使い道は、無かった。
仕送りは、そのまま毎月来ている。額は変わっていない。
家賃も、そこから出ている。バイトのぶんは、通帳に積まれるだけになる。
二年の終わりで、四十一万二千円たまっていた。
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四十一万二千円で、こちらが買ったものは三つある。
自転車の後ろの荷台と、電気ケトルと、長靴になる。
荷台が四千八百円、ケトルが二千九百円、長靴が三千二百円だ。
三つで一万九百円になる。四十一万二千円のうちの、二・六パーセントにあたる。
三つとも、必要なものだった。欲しいものではない。
必要なものを選ぶのは速い。母のやり方と同じになる。
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欲しいものを選ぶほうは、やはり出てこない。
金があると出てくるのかと思っていた。出てこなかった。
出てこないのを、だらしないとは思っていない。
だらしないなら、直し方が決まる。決まっていれば、こちらの手は動く。
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二年目のバイトも、週に三回のままにした。
入った回数は、二年の五月から三年の九月までで二百十一回になる。
時間にすると、千二百六十六時間だ。
仕分けた箱の数は、こちらの記録に残っている。合わせて三十万個を超えていた。
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倉庫の音は、四種類ある。
ベルトが回る音と、箱が当たる音と、テープを切る音と、台車の車輪になる。
テープを切る音は、人によって長さが違う。
いちばん短いのは、こちらの右にいた人だった。〇・四秒くらいになる。
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車輪の音で、誰が来るかが分かるようになった。
台車ごとに、片方の車輪が鳴る。鳴り方が違う。
九台あって、九台とも区別がついた。ついたのは、二週間目からになる。
誰にも言っていない。言う場面が来ない。
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台所からの足音と、やり方が同じだった。
九年、家でやってきたことが、そのまま倉庫で働いている。
働いていることを、こちらはそのころ何とも思っていない。
思っていないので、便利だとも考えなかった。
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夜勤のあと、家に着くのは四時四十分ごろになる。
寝るのは五時で、起きるのは十時二十分だ。
講義がある日は、九時に起きて、そのまま出る。
睡眠は、その年で平均四時間五十分になった。前の年より一時間二十分短い。
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短くなったことを、家では言っていない。
夜の連絡には、いつもどおり返している。返す時刻がずれた日が二十九日ある。
二十九日とも、母は何も書いてこなかった。
気をつけなさい、とも出ていない。九年で一度も来ていない言い方になる。
書いてこないので、ずれたことは起きていないことになる。
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夏に実家へ帰ったとき、母は手を見た。
箱を持つと、指の付け根が硬くなる。皮が厚くなって、色が変わっていた。
母は、何も言わない。見て、それだけになる。
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何か言ってくれませんか、と訊こうとした。
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次の箱に、ハンドクリームが入っていた。
九月に届いたぶんになる。頼んでいないものは、毎回一つだ。
その回は、それだった。使い方の紙は付いていない。
付けなくても分かるからだと思う。思うだけで、これも確かめていない。
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母は一度も、何のバイトなのと訊かなかった。
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訊かれていないのは、言っていないからになる。
言っていないのに、手を見て、次の月にあれが入ってくる。
順番が、九年前と同じだった。こちらが言う前に、物のほうが先に来る。
先に来るものを、こちらはいつも受け取っている。
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世間では、バイトは社会を知る場所だと言うらしい。
人と関わって、視野が広がる。普通は、そういうことになっている。
こちらは、二年やって、名前を覚えた人が三人になる。
三人とも、名札で覚えた。口で名乗られたのは一人もいない。
こちらから名乗ったこともない。訊かれなかったからになる。
訊かれないものは出さない。九年やってきたやり方が、そこでも同じに働いた。
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やめたのは、三年の九月になる。
やめる日を決めたのは、こちらだ。決めた日を、いまでも言える。
理由は、就職の準備が始まるからになる。それも自分で決めた。
二つとも自分で決めたのに、決めたという感じが出てこない。
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出てこないのは、たぶん比べるものが無いからだと思う。
九年、決められた形の中で動いてきた。
中で動くのと、外で決めるのが、身体のどこで違うのかを知らない。
知らないので、同じ手つきで両方やっている。
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一時間いくら、というのは、いちばん分かりやすい数だった。




