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自慢の息子  作者: 智珠
第六部 空欄

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第095話 一人の部屋

 部屋を決めたのは、三月十七日だった。


 母と二人で行っている。父は仕事で、千尋は学校だ。


 不動産屋で三件見て、そのうちの二件目に決めた。


 決めたのは母になる。こちらは、どちらでもいいと言っている。


            *


 二件目は、木造の二階建ての二階だった。


 六畳で、台所が別に一畳半ある。風呂と便所は一緒だ。


 六畳というのは、縦が三百六十センチ、横が二百七十センチになる。


 机を窓の下に置くと、右に八十センチ空く。本棚は左の壁で、幅が九十センチある。


 布団を敷くと、通れるところが四十五センチになった。


 四十五センチは、肩を斜めにすれば通れる幅だ。


 大学まで、自転車で十四分。駅までは歩いて七分になる。


 築は二十九年で、こちらが生まれる前に建っている。


            *


 家賃は、母が不動産屋と話して決めた。


 金額は、その場でも言われていない。


 あとで、共益費を入れて四万八千円だと知った。書類に書いてあったからになる。


 書類を見たのは、契約が済んだあとだった。


            *


 母は、三件のうち一件目を見た時点でもう決めていたと思う。


 二件目を見ているあいだ、質問が七つ出た。一件目は三つで、三件目は一つになる。


 訊いた数がいちばん多いところに決まっている。


 訊く数が決め方だというのは、こちらの推測になる。訊いてはいない。


            *


 引っ越しは、三月二十九日だった。


 業者が二人来て、二時間で終わっている。


 運んだのは、段ボールが十四箱と、机と椅子と本棚になる。


 布団は、新しいものを母が買った。前のは実家に置いてきた。


            *


 十四箱のうち、十三箱は母が詰めた。


 服が四箱、本が五箱、参考書が二箱、食器が二箱になる。


 中身は、箱ごとにきちんと分けてあった。


 箱の側面に、中身が書いてある。母の字だ。


 書き方が九年前の予定表と同じで、字の大きさもそろっていた。


            *


 残りの一箱を、こちらが詰めた。


 答案の束が入っている。中学から高校までのぶんになる。


 枚数は数え直していない。前に数えたのは一年の三月で、四百十二枚だった。


 いまはもっとある。六百枚を超えているはずだ。


            *


 束のいちばん上に、九年ぶんの月謝を計算した紙がある。


 いちばん下に、半紙が一枚入っている。書道教室の、最後の一枚になる。


 あいだに、千尋が小学一年のときにくれた絵が入っている。


 三つとも、こちらが自分で入れた。母には言っていない。


            *


 その箱に、母は触らなかった。


 触らないでいたのか、気づかなかったのかは分からない。


 ガムテープは、こちらが自分で貼っている。貼り方が下手で、端が浮いた。


 浮いたところを、そのまま持っていった。


            *


 立派なところではない。壁が薄くて、廊下の音が入る。


 それでも、母は不動産屋に三十分ほど質問をしていた。


 訊いたのは、ゴミの出し方と、管理人の連絡先と、給湯器の型になる。


 三つとも、こちらには思いつかない質問だった。


            *


 部屋に入れたあと、母が半日いた。


 台所の棚を拭いて、食器を並べて、カーテンを掛ける。


 カーテンは、実家で使っていたものではない。新しく買ってある。


 どこで買ったのかは訊いていない。値段も知らない。


            *


 母は、窓に何もしなかった。


 実家では、七月になるとすだれを掛ける。ここでは掛けられない。


 掛けるところが無いからだ。窓の外に、庇が出ていない。


 庇が無いことを、母は入居のときに一度見て、それきり見ていない。


            *


 その窓のことを、こちらは何度か思い出す。


 母の手が届かない場所が、そこで初めてできたことになる。


 できたと分かったのは、ずっとあとになってからだ。


 その日は、カーテンの丈のことしか見ていない。


            *


 冷蔵庫には、母が入れていったものがある。


 卵が十個、牛乳が一本、麦茶のパックが一箱になる。


 あとは、味噌と、醤油と、油だ。全部で九つある。


 九つとも、こちらが使うものだった。使わないものが一つも無い。


 必要なものを、この人は九年間一度も外していない。そこも変わっていなかった。


            *


 夕方に、母が帰った。


 帰る前に、ゴミの日を書いた紙を冷蔵庫に貼っている。


 燃えるのが火曜と金曜、燃えないのが第二と第四の水曜になる。


 紙は、こちらが四年間そこに貼ったままにした。


            *


 もう帰るんですか、と訊こうとした。


            *


 駅まで送っていない。


 送ろうか、とも言っていない。母は、じゃあ、と言って階段を下りた。


 外の階段は鉄で、下りると音が鳴る。十三段ある。


 十三段ぶんの音を、こちらは部屋の中で聞いた。


            *


 母が帰った時刻を、僕は覚えていない。


 時計はもう掛かっていた。掛けたのは母になる。


 しっかり見ていれば、数は出たはずだ。その日は、見ていない。


 見なかった日は、その年でその一日だけになる。


            *


 四月の一週目に、部屋のものを数えた。


 食器が十四、鍋が二つ、包丁が一本になる。


 服が二十六枚で、そのうち上が十七、下が九だ。


 本は二百四十一冊あった。参考書が九十三冊で、残りが教科書と辞書になる。


 二十六枚の服のうち、こちらが選んで買ったものは零になる。


            *


 一人になった夜に、音を数えた。


 冷蔵庫が鳴る。実家のより高い音で、周期も短い。


 上の階の人が歩く。踵から下ろす歩き方で、六歩で部屋を横切る。


 外で、自動販売機の音がしている。二軒先の角にあるやつだ。


            *


 水道の音は、蛇口を開けてから一秒遅れる。


 配管が古いからだと思う。止めたあとも、しばらく鳴っている。


 その残り方が、実家とは違う。実家は止めると、すぐ音が消えた。


 違いを、こちらは初めての夜に全部聞き分けている。


            *


 その夜に聞き分けた音は、七種類になる。


 七種類とも、いまでも順に並べられる。並べても、どこにも出せない。


            *


 聞き分けたことを、誰にも言っていない。


 言う相手が、その部屋には一人もいなかった。


 こういう状態は、九年で初めてになる。実家では、下に必ず誰かがいた。


 誰もいないことを、そのときは何とも思わなかった。


 思わなかったのが、ちゃんとした強さなのか、そうでないのかは決まらない。


 決まらないので、そこは当たり前のこととして通り過ぎた。


            *


 世間では、一人暮らしは自由だと言うらしい。


 何時に寝ても、何を食べてもいい。普通は、そこがいいところになる。


 こちらは、初めての夜も同じ時間に寝た。二十三時十分になる。


 実家での時間と、二十分しか違わない。


            *


 次の朝、六時四十分に起きた。


 目覚ましは鳴っていない。鳴る前に覚めている。


 実家と同じ時間だ。誰も見ていないのに、身体のほうが同じに動く。


 動いてから、そこに誰もいないことを思い出した。


            *


 起きて、まず布団をたたんだ。


 たたむ形が、実家と同じになる。三つ折りにして、端をそろえる。


 そろえるのは、母がやっていたやり方だ。教わった覚えは無い。


 覚えが無いのに、手のほうが順を知っている。


            *


 だらしないやり方にするのは、簡単だったはずだ。


 誰も見ていないので、たたまなくても済む。済むのに、手が先に動く。


 動く手を、こちらは止めなかった。止める理由も無い。


 止める理由を、そこで探しはしなかった。


            *


 朝は、母が入れていった卵を焼いた。


 焼き方は知らない。実家では、こちらは台所に立ったことが九年で三回しかない。


 三回とも、湯を沸かしただけになる。


 卵は、焦げた。二個目も焦げている。三個目で、火を弱くすると焦げないと分かった。


            *


 焦がしたことを、母には言っていない。


 言えば、たぶん焼き方を教えてくれる。教わるのは簡単だ。


 簡単なのに、こちらは訊いていない。訊く形をやはり持っていない。


 持っていないまま、卵を十個とも自分で焼いた。九個は焦げている。


            *


 無理しなさんな、とも言われていない。九年で一度も出ていない言い方になる。


            *


 母は一度も、ちゃんとやれているのと訊かなかった。


            *


 入学式は四月四日だった。


 学部は工学部で、学科の定員が百二十人になる。全体では千七百人ほどいる。


 式は十時からで、講堂に入るのが九時四十分だった。


 保護者の席は埋まっている。数えると、四百人は超えていた。


            *


 母は、来ていない。


 来るかどうかを、こちらは訊かれなかった。こちらからも言っていない。


 千尋の高校の入学式には、去年行っている。写真も撮った。


 二つを並べて考えたのは、ずっとあとになってからだ。


            *


 来なかったことを、恥ずかしいとも情けないとも思っていない。


 せっかくの式だ、という言い方も出てこない。


 式のあいだ、こちらは天井の照明を数えていた。八十六個ある。


 数え終わったところで、話が終わった。


            *


 その部屋で、こちらは四年を過ごすことになる。


 押入れは上下に分かれていて、上の段に例の一箱を入れた。


 入れたのは引っ越しの日で、それから一度も下ろしていない。


 下ろす用が無いからになる。用が無いものを、この人は動かさない。


            *


 誰も見ていない部屋で、僕は同じ時間に起きた。

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