第095話 一人の部屋
部屋を決めたのは、三月十七日だった。
母と二人で行っている。父は仕事で、千尋は学校だ。
不動産屋で三件見て、そのうちの二件目に決めた。
決めたのは母になる。こちらは、どちらでもいいと言っている。
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二件目は、木造の二階建ての二階だった。
六畳で、台所が別に一畳半ある。風呂と便所は一緒だ。
六畳というのは、縦が三百六十センチ、横が二百七十センチになる。
机を窓の下に置くと、右に八十センチ空く。本棚は左の壁で、幅が九十センチある。
布団を敷くと、通れるところが四十五センチになった。
四十五センチは、肩を斜めにすれば通れる幅だ。
大学まで、自転車で十四分。駅までは歩いて七分になる。
築は二十九年で、こちらが生まれる前に建っている。
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家賃は、母が不動産屋と話して決めた。
金額は、その場でも言われていない。
あとで、共益費を入れて四万八千円だと知った。書類に書いてあったからになる。
書類を見たのは、契約が済んだあとだった。
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母は、三件のうち一件目を見た時点でもう決めていたと思う。
二件目を見ているあいだ、質問が七つ出た。一件目は三つで、三件目は一つになる。
訊いた数がいちばん多いところに決まっている。
訊く数が決め方だというのは、こちらの推測になる。訊いてはいない。
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引っ越しは、三月二十九日だった。
業者が二人来て、二時間で終わっている。
運んだのは、段ボールが十四箱と、机と椅子と本棚になる。
布団は、新しいものを母が買った。前のは実家に置いてきた。
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十四箱のうち、十三箱は母が詰めた。
服が四箱、本が五箱、参考書が二箱、食器が二箱になる。
中身は、箱ごとにきちんと分けてあった。
箱の側面に、中身が書いてある。母の字だ。
書き方が九年前の予定表と同じで、字の大きさもそろっていた。
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残りの一箱を、こちらが詰めた。
答案の束が入っている。中学から高校までのぶんになる。
枚数は数え直していない。前に数えたのは一年の三月で、四百十二枚だった。
いまはもっとある。六百枚を超えているはずだ。
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束のいちばん上に、九年ぶんの月謝を計算した紙がある。
いちばん下に、半紙が一枚入っている。書道教室の、最後の一枚になる。
あいだに、千尋が小学一年のときにくれた絵が入っている。
三つとも、こちらが自分で入れた。母には言っていない。
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その箱に、母は触らなかった。
触らないでいたのか、気づかなかったのかは分からない。
ガムテープは、こちらが自分で貼っている。貼り方が下手で、端が浮いた。
浮いたところを、そのまま持っていった。
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立派なところではない。壁が薄くて、廊下の音が入る。
それでも、母は不動産屋に三十分ほど質問をしていた。
訊いたのは、ゴミの出し方と、管理人の連絡先と、給湯器の型になる。
三つとも、こちらには思いつかない質問だった。
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部屋に入れたあと、母が半日いた。
台所の棚を拭いて、食器を並べて、カーテンを掛ける。
カーテンは、実家で使っていたものではない。新しく買ってある。
どこで買ったのかは訊いていない。値段も知らない。
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母は、窓に何もしなかった。
実家では、七月になるとすだれを掛ける。ここでは掛けられない。
掛けるところが無いからだ。窓の外に、庇が出ていない。
庇が無いことを、母は入居のときに一度見て、それきり見ていない。
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その窓のことを、こちらは何度か思い出す。
母の手が届かない場所が、そこで初めてできたことになる。
できたと分かったのは、ずっとあとになってからだ。
その日は、カーテンの丈のことしか見ていない。
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冷蔵庫には、母が入れていったものがある。
卵が十個、牛乳が一本、麦茶のパックが一箱になる。
あとは、味噌と、醤油と、油だ。全部で九つある。
九つとも、こちらが使うものだった。使わないものが一つも無い。
必要なものを、この人は九年間一度も外していない。そこも変わっていなかった。
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夕方に、母が帰った。
帰る前に、ゴミの日を書いた紙を冷蔵庫に貼っている。
燃えるのが火曜と金曜、燃えないのが第二と第四の水曜になる。
紙は、こちらが四年間そこに貼ったままにした。
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もう帰るんですか、と訊こうとした。
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駅まで送っていない。
送ろうか、とも言っていない。母は、じゃあ、と言って階段を下りた。
外の階段は鉄で、下りると音が鳴る。十三段ある。
十三段ぶんの音を、こちらは部屋の中で聞いた。
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母が帰った時刻を、僕は覚えていない。
時計はもう掛かっていた。掛けたのは母になる。
しっかり見ていれば、数は出たはずだ。その日は、見ていない。
見なかった日は、その年でその一日だけになる。
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四月の一週目に、部屋のものを数えた。
食器が十四、鍋が二つ、包丁が一本になる。
服が二十六枚で、そのうち上が十七、下が九だ。
本は二百四十一冊あった。参考書が九十三冊で、残りが教科書と辞書になる。
二十六枚の服のうち、こちらが選んで買ったものは零になる。
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一人になった夜に、音を数えた。
冷蔵庫が鳴る。実家のより高い音で、周期も短い。
上の階の人が歩く。踵から下ろす歩き方で、六歩で部屋を横切る。
外で、自動販売機の音がしている。二軒先の角にあるやつだ。
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水道の音は、蛇口を開けてから一秒遅れる。
配管が古いからだと思う。止めたあとも、しばらく鳴っている。
その残り方が、実家とは違う。実家は止めると、すぐ音が消えた。
違いを、こちらは初めての夜に全部聞き分けている。
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その夜に聞き分けた音は、七種類になる。
七種類とも、いまでも順に並べられる。並べても、どこにも出せない。
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聞き分けたことを、誰にも言っていない。
言う相手が、その部屋には一人もいなかった。
こういう状態は、九年で初めてになる。実家では、下に必ず誰かがいた。
誰もいないことを、そのときは何とも思わなかった。
思わなかったのが、ちゃんとした強さなのか、そうでないのかは決まらない。
決まらないので、そこは当たり前のこととして通り過ぎた。
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世間では、一人暮らしは自由だと言うらしい。
何時に寝ても、何を食べてもいい。普通は、そこがいいところになる。
こちらは、初めての夜も同じ時間に寝た。二十三時十分になる。
実家での時間と、二十分しか違わない。
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次の朝、六時四十分に起きた。
目覚ましは鳴っていない。鳴る前に覚めている。
実家と同じ時間だ。誰も見ていないのに、身体のほうが同じに動く。
動いてから、そこに誰もいないことを思い出した。
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起きて、まず布団をたたんだ。
たたむ形が、実家と同じになる。三つ折りにして、端をそろえる。
そろえるのは、母がやっていたやり方だ。教わった覚えは無い。
覚えが無いのに、手のほうが順を知っている。
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だらしないやり方にするのは、簡単だったはずだ。
誰も見ていないので、たたまなくても済む。済むのに、手が先に動く。
動く手を、こちらは止めなかった。止める理由も無い。
止める理由を、そこで探しはしなかった。
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朝は、母が入れていった卵を焼いた。
焼き方は知らない。実家では、こちらは台所に立ったことが九年で三回しかない。
三回とも、湯を沸かしただけになる。
卵は、焦げた。二個目も焦げている。三個目で、火を弱くすると焦げないと分かった。
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焦がしたことを、母には言っていない。
言えば、たぶん焼き方を教えてくれる。教わるのは簡単だ。
簡単なのに、こちらは訊いていない。訊く形をやはり持っていない。
持っていないまま、卵を十個とも自分で焼いた。九個は焦げている。
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無理しなさんな、とも言われていない。九年で一度も出ていない言い方になる。
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母は一度も、ちゃんとやれているのと訊かなかった。
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入学式は四月四日だった。
学部は工学部で、学科の定員が百二十人になる。全体では千七百人ほどいる。
式は十時からで、講堂に入るのが九時四十分だった。
保護者の席は埋まっている。数えると、四百人は超えていた。
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母は、来ていない。
来るかどうかを、こちらは訊かれなかった。こちらからも言っていない。
千尋の高校の入学式には、去年行っている。写真も撮った。
二つを並べて考えたのは、ずっとあとになってからだ。
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来なかったことを、恥ずかしいとも情けないとも思っていない。
せっかくの式だ、という言い方も出てこない。
式のあいだ、こちらは天井の照明を数えていた。八十六個ある。
数え終わったところで、話が終わった。
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その部屋で、こちらは四年を過ごすことになる。
押入れは上下に分かれていて、上の段に例の一箱を入れた。
入れたのは引っ越しの日で、それから一度も下ろしていない。
下ろす用が無いからになる。用が無いものを、この人は動かさない。
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誰も見ていない部屋で、僕は同じ時間に起きた。




