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9. 大地の病室にて

病室のドアが静かに開いた。


「ただいま」


買い物袋を抱えた明子が部屋へ入ると、ベッドの脇に座っていた娘のひとみが振り返った。


「お母さん、遅かったじゃない」


心配と疲れが入り混じった声だった。


明子は息を整える間もなく、頬を紅潮させながら言った。


「ごめんね。でもね、大ニュースがあるの」


その弾んだ声に、ひとみは眉をひそめる。


「何よ、大ニュースって。それに病室なんだから、そんな大きな声を出さないで」


周囲の病室に気を遣いながら、少し強い口調でたしなめた。


それでも明子は興奮を抑えきれなかった。


「実はね、この近くでジャガーズの田村選手に会ったの」


「……えっ?」


ひとみは思わず聞き返した。


「本当なの?」


その表情には驚きよりも疑いの色が浮かんでいる。


「本当よ。間違いなく田村選手だったわ」


明子は病院へ向かう途中で起きた出来事を、一つひとつ思い返しながら話した。


急ブレーキ。


転倒した自分。


声を掛けてくれた青年。


病院まで自転車を押してくれたこと。


そして、自分が差し出したお金を受け取らず、最後に「実はジャガーズの田村です」と打ち明けてくれたこと――。


話を聞いていたひとみも、次第に口を挟まなくなった。


ベッドの上では、大地が目を輝かせながら祖母の話に聞き入っている。


明子は大地の顔を見つめ、優しく笑った。


「大地、今度ね、ジャガーズの田村選手が会いに来てくれるかもしれないって言ってくれたのよ」


その瞬間、大地の顔がぱっと明るくなった。


「ほんとう? タムが来てくれるの?」


無邪気な笑顔だった。


しかし、その隣でひとみは小さくため息をつく。


「お母さん……そんなこと言わないで」


静かな声だったが、その中には母親としての複雑な思いが込められていた。


「大地が本気にしちゃうでしょう。」


明子は少し困ったように笑った。


「田村さんは、『大阪には三日ほどいるので、都合が合えばお見舞いに伺いたい』と言ってくださっただけよ」


すると、ひとみは首を横に振った。


「それは社交辞令よ。ジャガーズは明日から三日間ずっと試合でしょう。そんな忙しい選手が病院まで来られるわけないじゃない」


現実を知っているからこその言葉だった。


期待させたあとで、がっかりさせたくない。


そんな母親の思いが、その口調にはにじんでいた。


病室に少しだけ沈黙が流れる。


その空気を和らげるように、ひとみは大地へ優しく微笑みかけた。


「でもね、田村選手は『大地君が早く元気になりますように』って言ってくれたんでしょう?」


明子は大きくうなずいた。


「ええ。ちゃんとそう言ってくださったわ」


大地は小さな拳をぎゅっと握りしめる。


「うん」


そして、満面の笑みで言った。


「ぼく、早く元気になる」


その笑顔を見た明子とひとみは顔を見合わせ、小さく微笑んだ。


二人とも胸の中では同じことを願っていた。


――どうか、この子が一日でも早く元気になりますように。


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