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8. 田村のファン

女性を待たせていた場所へ戻ると、田村は軽く頭を下げた。


「お待たせしました。どちらまで行かれる予定だったのですか?」


女性は少し安堵したように微笑み、答えた。


「この近くのK大学病院です」


その言葉を聞くと、田村は倒れたままになっていた自転車を起こし、自然な動作でハンドルを握った。


「それでは、自転車はこちらで押します」


「そんな……申し訳ありません」


「気になさらないでください」


二人はゆっくりと病院へ向かって歩き始めた。


女性は足をかばうように歩いていたため、田村もその歩幅に合わせる。


しばらく無言の時間が流れたあと、田村は穏やかな口調で尋ねた。


「失礼ですが、通院されているのですか?」


女性は首を横に振った。


「いえ、私ではありません。昨日、孫が入院したと連絡を受けまして……。急いで病院へ向かう途中だったんです」


その声には、不安と心配が滲んでいた。


「お孫さんは、おいくつですか?」


「五歳です。幼稚園に通っています」


田村は小さくうなずいた。


「そうですか……。早く元気になって退院できるといいですね」


その一言に、女性の表情が少しだけ柔らかくなった。


しばらく歩いていると、女性が何度も田村の横顔を見つめていることに気付いた。


やがて意を決したように口を開く。


「失礼ですけど……ジャガーズの田村選手に似ているって言われませんか?」


思いがけない言葉に、田村は思わず笑みをこぼした。


「ええ、たまに言われます」


その返事に女性も笑い、二人の間に張り詰めていた空気がふっと和らいだ。


それから病院までの道のりは、ジャガーズの話で盛り上がった。


女性の孫・大地君は熱心なジャガーズファンで、試合のたびにテレビの前で声援を送っているという。


そして、とりわけ田村のことがお気に入りらしかった。


「田村選手が映ると、『タムだ! タムだ!』って飛び跳ねるんですよ」


女性は嬉しそうに目を細めた。


その無邪気な様子が目に浮かび、田村の頬も自然と緩んだ。


やがてK大学病院の建物が見えてきた。


女性は足を止め、深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございました。ここまでで十分です。お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」


そして、ふと思い出したように尋ねた。


「ところで……さっき一緒にいらした皆さんは、もう先へ行かれたのですか?」


「ええ。先に宿舎へ向かってもらいました。でも、ホテルはここから車で十五分ほどですから」


田村が笑顔で答えると、女性は慌ててバッグから財布を取り出した。


「せめてタクシー代だけでも受け取ってください。」


そう言って差し出された紙幣を見て、田村は静かに首を振った。


「いえ、お気持ちだけで十分です」


女性はなおも勧めようとしたが、田村は少し考えた末、静かに口を開いた。


「実は……私、ジャガーズの田村なんです」


女性の目が大きく見開かれた。


「最初に本当のことを言わなくて、すみませんでした」


一瞬の沈黙のあと、女性は驚きと喜びが入り混じった表情で何度も頭を下げた。


「まあ……本当に田村選手だったんですね」


「あと三日ほど大阪にいます。もし都合が合えば、お孫さんのお見舞いにも伺えたらと思っています」


その言葉に、女性の目には涙が浮かんだ。


「ありがとうございます。孫に自慢できます。『田村選手に会ったんだよ』って話したら、きっと飛び上がって喜びます」


田村は優しく微笑んだ。


「もしよろしければ、お孫さんのお名前を教えていただけますか」


「大地です。村山大地と言います」


女性は嬉しそうに話し始めた。


「主人も息子もジャガーズの大ファンで、大地は二歳の頃からずっと一緒に応援しているんです。田村選手がテレビに映ると、『タムだ! タムだ!』って大喜びするんですよ」


その話を聞いた田村は胸が温かくなるのを感じた。


「それは嬉しいですね」


そう言って少し照れ笑いを浮かべる。


「大地君に伝えてください。『頑張って、早く元気になってね』と」


女性は何度もうなずきながら礼を述べた。


その笑顔を見届けると、田村は病院の前で一台のタクシーを止めた。


静かにドアが閉まる。


走り出した車窓から見えたのは、病院へ向かってゆっくり歩いていく祖母の背中だった。


その背中が建物の中へ消えるまで、田村はそっと見送り続けていた。


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