40. 大地の退院
翌日
幸雄は朝から何度も田村の携帯電話へ連絡を入れていた。
呼び出し音だけが、虚しく耳に残る。
試合の翌日だ。取材や祝勝会に追われているのだろう。
仕方がないと分かっていても、どうしても伝えたいことがあった。
テレビでは、昨夜の試合が何度も繰り返し流れている。
白球が夜空へ舞い上がる。
歓声。
ホームへ駆け込む田村。
アナウンサーは興奮した声で叫び続ける。
「奇跡のサヨナラホームランです!」
奇跡――。
その言葉を耳にするたび、幸雄は病室で起きた出来事を思い出していた。
あの一打と、あの小さな指が動いた瞬間。
あまりにも重なりすぎていた。
だが、そのことを知る者は、まだ誰もいない。
その夜。
時計の針が十時を回った頃、自宅の電話が静かに鳴った。
受話器を取ったのは、ひとみだった。
「……はい」
少し間があって、穏やかな男の声が聞こえてくる。
「夜分に失礼いたします。田村と申します」
一瞬、ひとみは言葉を失った。
「何度もお電話をいただいたのに、こちらからのお返事が遅くなってしまい、本当に申し訳ありません」
丁寧な口調だった。
けれど、その声の奥には、どこか張りつめたものがあった。
「大地くんの具合は……その後、いかがでしょうか」
ひとみは受話器を握りしめた。
言葉にしようとすると、胸がいっぱいになる。
何度も息を整え、ようやく声を絞り出した。
「……助かりました」
短い一言だった。
その瞬間、電話の向こうで小さく息をのむ音が聞こえた。
「本当に……?」
震えた声だった。
「はい。まだ治療は続きます。でも、意識は戻りました」
しばらく、どちらも何も話さなかった。
沈黙だけが、電話線の向こうとこちらを静かにつないでいた。
「……よかった」
ようやく聞こえた田村の声は、かすかに震えていた。
「本当によかった」
その言葉だけで、ひとみの目に再び涙が浮かんだ。
「実は……」
ひとみはためらいながら口を開く。
「一つだけ、お話ししたいことがあるんです」
「はい」
「昨日、田村さんがホームランを打った、その直後でした」
受話器を持つ手に力が入る。
「大地の意識が戻ったんです」
電話の向こうは静まり返っていた。
「それだけじゃありません」
ひとみは静かに続ける。
「目を覚ました大地が言ったんです。夢の中で田村さんと約束したって。ホームランを打って、一番になるって」
長い沈黙が流れた。
時計の秒針だけが時を刻む。
やがて田村が、静かに息を吐く。
「……こんなことを言ったら、笑われるかもしれません」
迷うような声だった。
「ですが、私も見たんです」
ひとみは息を止めた。
「病室でした」
田村はゆっくりと言葉をつないでいく。
「窓際に大地くんが立っていて……私に言ったんです。『ホームランをいっぱい打ってね』って」
一拍置いて続ける。
「だから私は約束しました。必ず打つ。必ず優勝する、と」
自分で話していても、現実とは思えなかった。
けれど、あの夢だけは忘れられない。
汗の匂いまで感じるほど鮮明だった。
「約束を守れて……本当によかった」
田村の声は穏やかだった。
「大地くんが退院したら、また会わせてください」
受話器の向こうで、ひとみが静かに涙をぬぐう。
「ありがとうございます」
その一言しか出てこなかった。
「夢だったのかもしれません。でも、大地との約束を守ってくださったこと、一生忘れません」
「こちらこそ」
田村は静かに微笑んだ。
「また元気な大地くんと会える日を、楽しみにしています」
電話が切れたあとも、田村はしばらく受話器を置けなかった。
昨夜、バットの芯でとらえたあの感触。
夜空へ吸い込まれていった白球。
歓声に包まれたスタンド。
あれは、ただの偶然だったのだろうか。
それとも。
一人の少年が、生きたいと願った想いが。
あの一打を、あとひと伸びさせたのだろうか。
答えは、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――。
約束は、守られたということだった。
そして二週間後。
春の日差しが病院の廊下をやさしく照らす朝。
大地は、自分の足で病院の玄関をくぐった。
その小さな一歩は、誰よりも大きな奇跡の証だった。




