39.大地に奇跡が!
一定の間隔で鳴る心電図の電子音が、静まり返った集中治療室に響いていた。
白い照明の下、小さな体は眠るように横たわっている。
まるで、そのまま時が止まってしまったかのようだった。
「大地……」
ひとみは息子の手を包み込み、何度もその名を呼んだ。
「お願い……もう一度、目を開けて」
涙が頬を伝い、マスクの内側へと吸い込まれていく。
返事はない。
わずかに上下する胸だけが、かろうじて命の灯を伝えていた。
「大地」
幸雄もベッドの傍らへ歩み寄る。
震える指先で、小さな肩にそっと触れた。
「帰ってこい……」
その一言だけで精いっぱいだった。
本当は叫びたかった。
代われるものなら、自分の命を差し出したかった。
だが、その願いは声にならず、胸の奥へ沈んでいく。
時間だけが過ぎていった。
時計を見る気力さえ失われるほど長い時間。
その静寂を破るように、幸雄のポケットでスマートフォンが震えた。
画面には速報が表示されている。
『ジャガーズ、日本一』
幸雄は目を細め、小さく息を吐いた。
「……大地」
静かに画面を見つめたままつぶやく。
「田村が、決めたぞ。サヨナラホームランだ」
苦笑にも似た笑みが浮かぶ。
「お前に見せてやりたかったな」
その瞬間だった。
「あなた!」
ひとみが思わず声を上げた。
「どうした?」
「今……大地の手が動いたの!」
幸雄は駆け寄る。
半信半疑のまま、小さな手を包み込む。
すると――。
細い指先が、ほんのわずかに動いた。
そして、ぎこちなく幸雄の指を握り返した。
息をのむ。
「大地……」
返事はない。
それでも確かに、生きようとする力だけは伝わってきた。
数分にも、数時間にも感じられる沈黙。
やがて、小さなまぶたがかすかに震えた。
一度。
もう一度。
ゆっくりと光を求めるように開いていく。
「大地!」
ひとみは震える手でナースコールを押した。
「お願いします! 目を開けました!」
足音が廊下を駆ける。
その間にも、大地はぼんやりと天井を見つめていた。
やがて視線がゆっくり動き、両親の顔を映す。
「……パパ?」
かすれた声だった。
それでも、その一言だけで十分だった。
幸雄の肩から力が抜ける。
「ママ……どうして泣いてるの?」
ひとみは涙をぬぐいながら笑った。
「嬉しいからよ」
「何かあったの?」
幸雄は優しく頭を撫でる。
「ジャガーズが優勝したんだ」
すると大地は、眠そうな目を細めて笑った。
「やっぱり」
「え?」
「タムがホームラン打ったんでしょ?」
病室の空気が止まる。
ひとみは思わず息をのんだ。
「どうして知ってるの?」
大地は不思議そうな顔をした。
「だって見てたもん」
まるで当たり前のことを話すように続ける。
「タムと約束したんだよ」
「約束?」
「ホームランをいっぱい打ったら、また会おうって」
幸雄は言葉を失った。
夢を見ていたのだろうか。
熱にうなされる中で、そんな夢を。
そう考えるのが一番自然だった。
それでも胸の奥には、小さな引っかかりが残る。
田村がサヨナラホームランを放った、その瞬間。
大地の指が初めて動いた時刻。
二つの出来事は、まるで示し合わせたように重なっていた。
やがて阿部医師が病室へ飛び込んでくる。
脈拍。
血圧。
瞳孔反応。
一つ一つ確認するたび、その表情が変わっていく。
やがて医師はモニターから顔を上げ、大地を見つめた。
驚きと安堵が入り混じった笑みだった。
「……回復しています」
一度言葉を切る。
「医学的な説明は、今のところできません」
その一言で十分だった。
ひとみは大地をそっと抱き寄せる。
「助かってくれて……ありがとう」
「ママ」
大地は照れくさそうに笑う。
「タムにありがとうって言ってね」
「どうして?」
「約束を守ってくれたから」
幸雄とひとみは静かに顔を見合わせた。
信じるとか、信じないとか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
腕の中には、確かなぬくもりがある。
それだけが真実だった。
奇跡とは、理由を求めるものではない。
生きたいという小さな願いが、人の想いと重なったとき。
人は、その出来事を奇跡と呼ぶのだろう。
翌朝。
病室の窓から差し込む柔らかな朝日に照らされながら、幸雄は携帯電話を手に取った。
登録された名前を静かに見つめる。
――田村。
昨夜、あの男が放った一振りが、一人の少年の心へ届いたのだとしたら。
球場と、この小さな病室は。
あの夜、確かに見えない一本の糸で結ばれていたのかもしれない。




