38. チャレンジの結果
九回裏、二死。
夜のスタジアムは、息を潜めていた。
さっきまで渦を巻いていた歓声は嘘のように消え、照明だけが白くグラウンドを照らしている。乾いた土の匂い。流れ落ちる汗。勝利への執念と敗北への恐れが、重たい空気となって球場を満たしていた。
その静寂を破るように、ベンチから一人の男が飛び出した。
「監督が飛び出しました!」
平田監督だった。
一直線に主審へ向かい、指で四角のポーズを取りました。
チャレンジ。
その仕草に、十数年積み重ねてきた執念のすべてが込められているようだった。
審判団が集まり、ゆっくりとモニターへ向かう。
大型スクリーンに、あの一瞬が映し出された。
田村のヘッドスライディング。
白いベース。
跳ね上がる土煙。
伸びるグラブ。
セーフか。
アウトか。
誰も声を上げない。
観客は総立ちになり、固く手を組み、息を殺して見守っていた。幼い子どもは父親の袖を握りしめ、白髪の老紳士は帽子を胸に抱いたまま、ただスクリーンを見つめている。
五分。
時計の針ならわずかな時間だ。
だが、その五分は永遠にも思えた。
田村はベンチ前で膝に手をつき、荒い息を整えていた。
ここまで来る道は、決して平坦ではなかった。
「期待外れ」と何度も言われた。
怪我で二軍へ落とされ、誰もいない室内練習場で、悔し涙を流しながらバットを振り続けた夜もある。
それでも、一人だけ信じてくれた男がいた。
川籐だった。
「お前が最後に決める男だ」
その言葉だけを支えに、田村は今日まで歩いてきた。
やがて審判団が姿を現す。
主審はマイクを握り、一度だけ深く息を吸った。
「ただいまの検証の結果――」
球場全体の時間が止まる。
「田村選手の手が、ベースに先に触れていました。セーフ。よって、ランニングホームランと認めます」
一瞬。
本当に、一瞬だけ静寂が訪れた。
次の瞬間だった。
球場が爆発した。
地鳴りのような歓声。
割れんばかりの拍手。
涙を流しながら抱き合う人々。
「田村のサヨナラランニングホームランです! ジャガーズ、優勝です!」
実況の声さえ歓声に飲み込まれる。
川籐は帽子のつばをそっと押さえた。
目尻に浮かんだ涙が、照明を受けて静かに光る。
「だから言っただろ……奇跡は、起こすもんだってな」
かすれた声だった。
もう、涙を隠す必要はなかった。
仲間たちが田村へ駆け寄る。
抱きつき、肩を叩き、笑いながらホームベースまで引っ張っていく。
そして全員が、一斉に飛びついた。
土煙が舞う。
泥だらけのユニフォームも、涙でぐしゃぐしゃの顔も、誰も気にしない。
「打ってこいとは言ったがな!」
平田監督が涙をぬぐいながら田村の尻を勢いよく叩いた。
「ランニングホームランまでやれとは言ってないぞ、このバカ!」
笑い声が弾ける。
田村も腹を抱えて笑った。
その笑顔のまま夜空を見上げる。
星は何一つ変わっていない。
それなのに、今夜だけは手を伸ばせば届きそうなほど近く感じられた。
奇跡とは、偶然の出来事ではない。
積み重ねた悔しさ。
流した涙。
折れそうになりながらも前を向き続けた時間。
そのすべてが最後の一瞬に結実したとき、人はそれを「奇跡」と呼ぶ。
その夜、ジャガーズは日本一になった。
だが、本当に勝利をつかんだのは――。
どれほど挫けても、自分を信じることだけはやめなかった、一人の男だった。




