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37/44

37.田村の最後の打席


大阪ドームは、祈りに包まれていた。


九回裏、二死。


一打出れば試合は終わる。


その緊張が、五万人を超える観衆の息遣いさえ奪っていた。


だが、その勝負の前に――。


田村が、静かに打席を外した。


どよめきがスタンドを走る。


ベンチから歩み寄ってきたのは、打撃コーチの平田だった。


言葉は短い。


いや、ほとんど聞き取れないほど小さかった。


田村は一度だけ頷く。


その目に迷いはなかった。


覚悟だったのか。


それとも、最後の賭けだったのか。


「ここで歩かせればバークランドと並びますが……できれば勝負してほしいですね」


実況の声だけが、静まり返ったドームに浮かんでいた。


マウンドの野口は表情を変えない。


初球。


高めへ外れる。


ボール。


二球目。


また外れる。


三球目も大きく外角へ。


誰の目にも、勝負を避けていることは明らかだった。


スタンドから怒号が噴き上がる。


「勝負しろ!」


「逃げるな!」


だが、捕手は立ち上がったままミットを高く構える。


申告ではない。


だが、実質的な敬遠だった。


歩かせて終わる。


それが最も確実な選択だった。


その瞬間だった。


田村の胸の奥で、何かが音を立てて弾けた。


ここで終われるのか。


最後の打席が、四球一つで終わっていいのか。


野口の四球目。


胸元へ大きく外れるはずだった白球。


その軌道へ――田村は躊躇なく踏み込んだ。


全身を叩きつけるような一閃。


乾いた打球音が、ドームを切り裂く。


白球は中堅へ伸びていく。


センターが懸命に背走する。


グラブを伸ばす。


あと一歩。


――届かない。


歓声が爆発した。


三塁走者がホームを駆け抜ける。


二塁走者・亀山も迷わず本塁へ飛び込む。


同点。


だが、田村の足は止まらない。


三塁ベースを蹴った瞬間、平田の腕が大きく回る。


「行けっ!」


その声だけが耳に残った。


足は鉛のように重い。


肺が焼ける。


視界の端が揺れる。


それでも前だけを見た。


記録のためじゃない。


勝つためだ。


このユニフォームを着て戦ってきた仲間のために。


今日まで声を枯らしてくれたファンのために。


そして、泥だらけになって白球を追いかけていた、あの日の少年のために。


センターから中継へ。


中継から、本塁へ。


矢のような送球が一直線に返ってくる。


間に合うか。


いや、間に合わせる。


田村は最後の一歩を踏み込み、そのまま頭から飛び込んだ。


土煙が舞い上がる。


捕手がワンバウンドで送球をつかみ、そのまま田村の足へグラブを滑らせた。


静寂。


球場中の時間が止まる。


主審が右腕を高く突き上げた。


アウト。


歓声は、大きなため息へと変わっていく。


スコアは同点のまま。


田村はしばらく起き上がれなかった。


あと指先一つ。


あと、ほんの一歩。


その距離だけが、勝利と敗北を分けた。


それでも、その背中に悔いはなかった。


誰よりも勝利を信じ、


誰よりも全力で駆け抜けた男の背中だった。


そのときだった。


ベンチから勢いよく監督が飛び出してきた。


何かを叫びながら、一直線に本塁へ向かって走ってくる。


球場が再びざわめき始めた。


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