35.7回裏ジャガーズの攻撃
スタンドを包んでいたざわめきが、ひとつの名前へと収束していく。
――田村。
二死三塁。
一打が流れを変える、その場面だった。
第一打席では、バックスクリーンへ突き刺さる豪快な一発を放った。
第二打席は敬遠。
勝負を避けられた悔しさを、田村は誰にも見せず、ただ静かにバットを握り直した。
マウンドでは亀田が深く息を吐く。
セットポジション。
振りかぶる。
初球。
白球が鋭く内角高めへ食い込んできた。
――速い。
反射的に身を引く。
耳元を風が裂いた。
どよめきが球場を包む。
ボール。
キャッチャーが返球する。
亀田はロージンバッグを握り直し、小さく二度、首を振った。
田村は息を整える。
来る――。
そう感じた瞬間だった。
次の一球。
白球が一直線に顔面へ襲いかかる。
避ける暇はない。
鈍い衝撃が頭蓋を打ち抜いた。
乾いた音が球場に響く。
ヘルメットが高く宙を舞い、田村の身体は糸の切れた人形のように、その場へ崩れ落ちた。
静寂。
ほんの一瞬。
次の瞬間、悲鳴が球場を飲み込んだ。
「田村!」
ジャガーズのベンチが飛び出す。
それを迎え撃つようにパイレーツの選手たちも駆け寄る。
怒声が飛び交い、互いの胸を突き飛ばす。
審判団が必死に割って入り、球場全体が張り詰めた空気に包まれた。
試合は中断された。
長い、長い二十分。
危険球が宣告され、亀田は退場を命じられる。
しかし誰ひとり、その背中を見ようとはしなかった。
視線の先にあるのは、グラウンドへ倒れた田村だけだった。
トレーナーに支えられながら、田村はゆっくりと身体を起こす。
額を押さえ、小さく息を吐く。
頭の奥が脈打つように痛む。
それでも、その足は止まらなかった。
立ち上がる。
スタンドから大きな拍手が湧き起こった。
監督の指示が平田コーチを通して届く。
「代走を出す」
その言葉を聞いた瞬間、田村は静かに首を横へ振った。
ここで終われるはずがない。
この一打席のために。
このユニフォームを着るために。
何千回、何万回とバットを振ってきた。
その歳月を、自分から終わらせることだけはできなかった。
「……私は大丈夫です」
かすれた声だった。
それでも瞳だけは、少しも曇っていない。
「最後まで……グラウンドに立たせてください」
平田は田村の目を見つめた。
その決意を測るように。
やがて、小さく息を吐いて頷く。
「……分かった。だが、少しでも異変を感じたら、すぐ言え」
「はい」
田村はゆっくりと一塁へ向かった。
一歩。
また一歩。
そのたびに、スタンドから拍手が広がっていく。
誰もが立ち上がっていた。
歓声ではない。
勝利を願う叫びでもない。
ただ一人の選手が、もう一度立ち上がったことへの拍手だった。
七回裏。
ジャガーズは最後まで好機を生かせず、攻撃を終えた。
チェンジ。
その声だけが、静かな球場へ響く。
ベンチへ戻る途中、田村は一度だけ空を見上げた。
夕焼けに染まり始めた空は、何事もなかったように静かだった。
悔しさは消えない。
頭の痛みも消えない。
それでも胸の奥には、まだ熱が残っていた。
試合は終わっていない。
自分も、まだ終わってはいない。
その想いだけを胸に、田村は再びベンチへの階段を上がっていった。




