34.危篤の大地
大地は、二日前に集中治療室を出て、静かな個室へ移された。
それは、容体が快方へ向かったからではなかった。
主治医の阿部は、もう悟っていた。
この小さな命に残された時間は、長くない。
薬で救える段階は、すでに過ぎていた。
無機質な機械音に囲まれながら最期を迎えるよりも、家族のぬくもりに包まれていてほしい。
医師として残された最後の務めは、命を延ばすことではなく、穏やかな時間を守ることだった。
そして、その予感は残酷なほど静かに現実となっていく。
大地の胸は浅く、小さく上下を繰り返すだけになった。
頬は痩せ、細い指先からは、日に日に力が失われていく。
阿部は病室を出るよう促し、廊下で両親と向き合った。
白衣の裾を静かに整え、一度だけ目を閉じる。
医師として何度経験しても、この言葉だけは慣れることがなかった。
「……申し上げにくいのですが」
短く息をつき、阿部は静かに続けた。
「大地君は……あと数日ほどしか持たない状態です」
ひとみの肩が小さく震えた。
阿部は言葉を切らず、ゆっくりと続ける。
「今、彼を支えているのは薬ではありません。残された体力と……生きようとする精神力です。申し訳ありませんが、医学として、これ以上できる治療はありません。」
沈黙が落ちた。
病院特有の静けさだけが、三人の間を流れていく。
ひとみはその場に立っていることすら苦しくなり、夫の腕へしがみついた。
「あなた……」
震える声は途中で涙に途切れる。
「大地は……本当に……死なないわよね……?」
現実を受け入れてしまえば、自分まで壊れてしまう。
そんな思いが、言葉の一つ一つに滲んでいた。
幸雄もまた、胸の奥では同じ恐怖に押し潰されそうになっていた。
それでも父親だけは、最後まで希望を失ってはいけない。
そう自分に言い聞かせる。
病室へ戻ると、眠るように横たわる息子の手をそっと握った。
冷たくなり始めた小さな手。
幸雄は笑顔を作り、優しく語りかけた。
「……大地、お前は強い男の子だろ」
返事はない。
それでも構わなかった。
「絶対に大丈夫だ。お前は負けない」
一度だけ言葉を飲み込み、努めて明るい声を作る。
「それに、大地の大好きな田村選手だって、お前を応援してる」
ほんの少しだけ笑ってみせる。
そして思い出したようにテレビへ目を向けた。
「そうだ、大地。今日はな……ジャガーズの最後の試合なんだ」
ベッド脇のリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。
画面が静かに光を灯した。
幸雄は知っている。
もう大地には、その映像も見えない。
歓声も届かない。
それでも、テレビを消すことだけはできなかった。
もしかしたら。
ほんのわずかでも。
心のどこかで聞いていてくれるかもしれない。
その、あり得ないほど小さな希望にすがりたかった。
実況の声が静かな病室へ流れ始める。
それは試合中継ではなかった。
父親が息子へ届けようとした、最後の祈りだった。




