30. 田村の気がかり
翌朝
田村は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
窓の外では蝉が鳴き始めている。
それでも昨夜の夢だけは、目を覚ましても消えてくれなかった。
夕暮れのグラウンド。
大地の笑顔。
そして、小さく手を振りながら光の中へ消えていった、あの後ろ姿――。
胸の奥に沈んだ不安は、朝になっても少しも薄れなかった。
いても立ってもいられず、田村はホテルの電話へ手を伸ばした。
受話器を握る手が、わずかに汗ばんでいる。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回――。
「……はい、村山です」
聞こえてきたのは、ひとみの声だった。
「おはようございます。田村です」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
「田村さん……おはようございます」
その返事には、いつもの穏やかさがなかった。
一晩中眠れなかった人の声だった。
「朝早くに申し訳ありません。大地君の具合が気になって……その後、容体はいかがですか」
電話の向こうが静まり返る。
ほんの数秒。
だが、その沈黙はひどく長く感じられた。
「……実は」
ひとみが、静かに口を開く。
「一昨日の夕方から熱が下がらなくて……今は集中治療室に入っています」
田村は思わず目を閉じた。
「主人と、これから病院へ向かうところなんです」
夢の中で聞いた大地の声が、不意によみがえる。
――もう、行けないんだ。
胸の奥が鈍く痛んだ。
「それから……」
ひとみは少し言葉を詰まらせた。
「誕生日にいただいたプレゼント……本当にありがとうございました」
かすかに鼻をすする音が聞こえる。
「あれは、大地にとって……一番うれしかった誕生日でした」
田村は息を呑んだ。
"でした"
その一言だけが、胸の奥へ深く突き刺さる。
「村山さん」
気づけば、声に力がこもっていた。
「どうして、そんな言い方をするんですか」
電話の向こうで、小さく息を呑む気配がした。
「大地君は、きっと元気になります」
言葉を切る。
それは励ましではなく、願いだった。
「だから……どうか、大地君の前では、笑っていてあげてください」
沈黙。
受話器越しに、小さなすすり泣きだけが聞こえる。
「……はい」
ようやく返ってきた返事は、震えていた。
「ありがとうございます」
田村は静かに目を閉じた。
「失礼します」
受話器を置く。
部屋は、しんと静まり返っていた。
時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。
田村はその場から動けなかった。
昨夜の夢。
大地の笑顔。
そして最後の言葉。
――「タムが、一番になって」
その声だけが、いつまでも胸の奥で静かに響き続けていた。




