28. 9回裏ジャガーズの攻撃
「タム、もう打たないの?」
スタンドを包むざわめきの中で、大地がぽつりとつぶやいた。
視線の先には、ライトに照らされたグラウンド。
その瞳には、まだどこか期待を捨てきれない光が宿っている。
「田村選手は五番だからな。今日は、もう回ってこないかもしれないな」
幸雄はそう言いながら、未練を残すようにスコアボードへ目を向けた。
「もう一回……タムのホームラン、見たかった」
悔しそうに唇を尖らせる大地へ、ひとみが優しく微笑む。
「大地。田村選手、さっきホームランを見せてくれたでしょう? そんな贅沢言わないの」
その声に、大地は少しだけ俯き、小さく頷いた。
「……ごめんなさい」
その謝罪は、夜風に溶けるように静かだった。
――だが、その数分後。
誰も予想しなかった奇跡が、球場に訪れようとしていた。
◇
「一点差で迎えた九回裏、ジャガーズ最後の攻撃です!」
場内アナウンスと実況が重なり、球場全体が張り詰めた空気に包まれる。
「先頭は一番・風間!」
初球。
風間は意表を突くセーフティーバント。
打球は三塁線へ転がり、サードが猛然と前へ突っ込む。
「送球――セーフ!」
スタンドが一気に沸き返る。
続く中谷はきっちり送りバントを決め、一死二塁。
そして三番・高木。
鋭い打球がレフト前へ抜けるかと思われたその瞬間、レフト・神田が前方へ飛び込み、芝生すれすれで捕球した。
「ファインプレー! ツーアウト二塁!」
歓声とため息が入り混じる。
四番クルーズは勝負を避けられ、敬遠。
ツーアウト、一、二塁。
そして――
「バッター、田村!」
その名前がコールされた瞬間、球場の空気が変わった。
もう一度。
もう一本。
誰もが心のどこかで願っていた。
田村は静かに打席へ入る。
今月打率四割六分。
今日もすでに一本、スタンドへ放り込んでいる。
初球、ストライク。
二球目、空振り。
あっという間に追い込まれる。
幸雄は無意識に拳を握り締めた。
隣では、大地が息を呑んでいる。
三球目。
外れて一ボール。
そして四球目。
野口が腕を振る。
田村のバットが鋭く振り抜かれた。
乾いた快音。
打球は高々とレフトへ舞い上がる。
レフト・三上が懸命に背走する。
フェンス際。
跳んだ。
次の瞬間、身体ごとフェンスへ激突した。
球場が、一瞬だけ静まり返る。
誰もが白球だけを見つめていた。
――その白球は。
フェンスの向こうへ消えた。
「入ったぁぁぁっ!!」
「サヨナラァァァァッ!! 田村、二打席連続! 劇的サヨナラ・スリーランホームラン!!」
地鳴りのような歓声が球場を揺らした。
ベンチから選手たちが飛び出す。
田村は拳を突き上げ、一塁を回る。
その姿は、歓喜の渦に飲み込まれていった。
川籐は言葉を失っていた。
頬を伝う涙を拭うこともできない。
ただ、田村の姿だけを見つめていた。
「大地……見たか」
幸雄の声は震えていた。
「田村選手……二本目だ」
「うん……見てた」
大地は目を潤ませながら何度も頷く。
「タム……すごい。本当に、すごいよ」
その横顔を見つめながら、幸雄は静かにひとみへ笑いかけた。
「大地の誕生日に……こんな最高のプレゼントをもらえるなんてな」
歓声はまだ鳴りやまない。
夜空へ響く大歓声を聞きながら、幸雄は胸の奥が熱く満たされていくのを感じていた。
きっとこの日の景色を、大地は一生忘れない。
そして自分もまた、この夜の歓声を、生涯忘れることはないだろう。




