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22.紀子との約束

田村はシーズン中になると、ほとんど自宅へ帰ることができなかった。


だからこそ、二、三日に一度は必ず妻・紀子へ電話を入れる。それが夫婦の小さな約束になっていた。


その夜も、宿舎の静かな廊下で携帯電話を取り出し、慣れた番号を押す。


数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が耳に届いた。


「もしもし」


その一言だけで、不思議と肩の力が抜ける。


「紀子、元気にしてるか?」


すると受話器の向こうで、小さく笑う気配がした。


「元気よ。珍しいわね、そんなこと聞くなんて。どうしたの? 何かあった?」


「いや……特に何もない」


そう答えたものの、本当は違った。


胸の奥には、ずっと引っ掛かっていることがある。


病院で出会った、白血病と闘う少年――大地。


誕生日までにホームランを二本打つ。


そう約束してしまったこと。


田村は一つひとつ言葉を選びながら、その日の出来事を紀子へ話した。


すべてを話し終えたあと、しばらく沈黙が流れる。


田村はゆっくり息を吐き、ぽつりと口にした。


「俺に……ホームランが打てると思うか?」


返事はすぐには返ってこなかった。


その沈黙が、かえって胸に重くのしかかる。


やがて紀子は静かに口を開いた。


「今のあなたなら……無理かもしれないわ」


その言葉は、田村の胸に鋭く突き刺さった。


「……やっぱり、そうだよな」


思わず視線を落とす。


しかし紀子は、優しい声で続けた。


「違うの。今の気持ちのままだったら、ってこと」


「今の気持ち?」


「あなた、五年前からずっと自信を失ってる」


田村の表情が曇る。


忘れようとしても忘れられない事故。


あの日の事故で紀子は子どもを授かることができない体になった。


田村は、自分を責め続けてきた。


野球では結果を残していても、心のどこかで、自分は何も守れなかった男なのだと思い続けていた。


紀子はそんな田村の気持ちを、誰よりも知っていた。


「あなたは私のせいで苦しんでいると思っているでしょう?」


田村は黙ったまま答えられない。


「でもね……本当は、私のほうがずっとつらかった」


その声は震えていた。


「目の前で、大好きなあなたが少しずつ自信を失っていく姿を見ることしかできなかったから」


田村は言葉を失う。


「私はね、あなたにもう一度、自信を取り戻してほしかった」


紀子は静かに微笑むような声で言った。


「あなたなら絶対にできるって、私は今でも信じてる」


受話器の向こうから聞こえるその一言が、田村の胸の奥深くへ染み込んでいく。


「高校生だった頃のあなたを思い出して」


その言葉とともに、甲子園を夢中で目指していた頃の自分が脳裏によみがえる。


誰よりも野球を楽しみ、誰よりも自分を信じていた、あの頃の自分。


「大地くんのために――ホームランを打ってきて」


田村はゆっくりと目を閉じた。


胸を覆っていた重たい霧が、少しずつ晴れていく。


「……ありがとう」


自然と声が震えた。


「昔みたいに、自分を信じてみるよ」


そして、力強く言い切る。


「必ずホームランを打ってみせる」


電話を切ったあともしばらく、田村は夜空を見上げていた。


もう迷いはなかった。


大地との約束のために。


そして、自分自身を取り戻すために。


田村は再び、前だけを見つめて歩き始めた。


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