12.サインボールのプレゼント
田村は、明子に案内されて大地の病室へ足を踏み入れた。
午後の柔らかな陽射しが窓から差し込み、四人部屋には大地と両親だけがいた。静かな病室に、田村の声が優しく響く。
「こんにちは」
その声に、大地の両親は同時に振り返った。
目の前に立っている人物を認めた瞬間、二人は言葉を失う。まさか本当に来てくれるとは思ってもいなかったのだ。
田村は少し照れたように微笑み、もう一度頭を下げた。
「こんにちは」
ようやく我に返ったひとみが、小さく会釈をする。
「こ、こんにちは…」
その様子を見て、明子が笑顔で声をかけた。
「もう、みんなどうしたの? せっかくジャガーズの田村選手が、大地のお見舞いに来てくださったのよ」
幸雄は姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「田村さん、本日はありがとうございます。本当に、大地のために来てくださったんですか」
「ええ。先日、大地君と約束しましたから」
田村は穏やかな口調で答えた。
「今日は時間がなくて、お見舞いの品も用意できませんでした。申し訳ありません」
ひとみは首を横に振った。
「そんな……来ていただけただけで十分です。本当にありがとうございます」
その言葉に、田村はほっとしたように笑みを浮かべた。
「大地、お礼を言わないと」
母に促され、大地は少し照れながら田村を見上げる。
「タム、ありがとう」
その無邪気な笑顔に、田村の表情も自然とほころんだ。
「こちらこそ会えてうれしいよ。早く元気になろうね」
そう言うと、田村は足元のボストンバッグから真新しい硬式ボールを取り出した。
慣れた手つきでサインを書き終えると、大地へそっと差し出す。
「大地君。こんな物しか持って来られなかったけど」
大地は両手で大切そうに受け取った。
「わあ……野球のボールだ!」
瞳を輝かせ、何度もサインを眺める。
「ありがとう!」
「よかったね、大地」
明子も思わず笑顔になる。
「宝物ができたね」
田村は少し照れくさそうに頭をかいた。
「宝物なんて、大げさですよ」
そう笑うと、腕時計へ視線を落とした。
「すみません。今日は次の予定があって、そろそろ失礼します」
そして大地に向かって優しく言う。
「元気になったら、お父さんやお母さんと一緒に試合を見に来てね」
「うん! 絶対行く!」
病室いっぱいに、大地の元気な声が響いた。
病室を出ると、ひとみと幸雄は田村を一階の正面玄関まで見送った。
「ここまでで結構ですよ」
田村は立ち止まり、ふと表情を曇らせた。
「失礼ですが……大地君の病気は、すぐによくなるのでしょうか」
その問いに、二人は顔を見合わせた。
わずかな沈黙が流れる。
やがて幸雄が静かに口を開いた。
「……実は、大地は白血病なんです」
その一言は、重く胸に落ちた。
「ですが、私たちは必ず治ると信じています」
田村は言葉を失った。
テレビで耳にしたことはある病名だった。しかし、それがあの無邪気な少年に向けられた現実だとは思いもしなかった。
胸の奥が締めつけられる。
やがて田村はゆっくりとうなずき、深く一礼した。
「大地君が一日も早く元気になられることを、心からお祈りしています」
そして、優しく続けた。
「どうか、大地君にもよろしくお伝えください」
そう言い残すと、田村は待たせていたタクシーに乗り込み、新大阪駅へ向かった。
走り去るタクシーを見送りながら、幸雄とひとみは、いつまでもその姿を見つめていた。




