7 空白が埋まる夜
自室に戻った私は、結局、最低限のことだけは伝えておこうと、公爵邸の露台へ向かった。
公爵は、食後の静かなひとときを夜風にあたりながら杯を傾けるのが常だった。
それはこの邸における、決められた儀式のようでもあった。
月光の下、深紅の葡萄酒を注いだ硝子のゴブレットを静かに傾けるその姿は、ハイエルフというより、齢を重ねたヴァンパイアロードのようにすら見えた。
優雅で、冷厳で、どこか哀しい。
「公爵、実は私は……」
「――転生者、なのだな?」
「ご存じ……だったのですか?」
「先刻の表情から、そうではないかと、な。少々カマをかけてみただけだ。次からは気をつけるがいい。」
やられた。やはりこの人は、こちらの数手先を常に見ている。
「しかし……そうか。やはり、そうであったか。」
それだけ呟き、彼はふたたび夜空の彼方を見やる。
硝子の中で揺れる哀しげな輝きが、まるで会うことの叶わなかった実の娘に捧げる献杯のようで、胸が痛んだ。
やがて、盃を置いた公爵は、もはや他人と確定した私に興味はないとでも言うように席を立ち、私の横を静かに通り過ぎていく。
私はただ、俯き、目を閉じることしかできなかった。
その静かな足音から、無念さが滲み出ているように思えてならなかったからだ。
ふと、薔薇の香りが、鼻先を掠めた。
毎朝、使用人が公爵の服に忍ばせる香りだった。
「……ずっと、辛い思いをさせてしまったな。娘の幸せを守ってやれなかった。父としての私の不徳ゆえだ。すまない。」
その声とともに、背後から肩へそっと添えられた手。
やさしく、静かに、抱き寄せられる。
迷いもためらいもない、真っ直ぐな父の温もりだった。
公爵から伝わってくる温度が、もう二度と、自分を賭けるような真似はするなと、そう言っているような気がした。
――もし、私がこの子に転生していなければ。
私のせいで生まれることのできなかったこの子は、こんな素敵な父親の腕に抱かれていたのだろうか。
記憶の底に沈んでいた、遠い記憶がふと蘇る。
――まだ言葉もおぼつかない頃。
まだ私と「ミリエル」との境があやふやだった頃。
公爵と先妻との間に生まれた三人の兄たちが、立て続けに一代貴族としての爵位を得て家を出ていった時期。新しい家門の行く末のため、公爵が執務室にこもりきりだった日々。
私は静かに扉の前に座り込み、何度も何度も「おとうさま」と呼びかけていた。
何の返事もなかった。けれど、扉の向こうからふと、諦めるような、愛おしむような、そんなため息が聞こえた気がして。
それを「返事」だと信じて、嬉しくなって、私は笑った。
そして、その日の晩、公爵は何年ぶりかに食卓に現れた。
……もし、私が自分の罪悪感から逃げ出さず、両親と真摯に向き合っていたなら、たとえ親子でなくとも、大切な何かを築けていたのだろうか。
なぜ、そんな当たり前のことに気づいたのが、
この家を去る前夜になってしまったのか――
声を出せば、きっと涙が溢れてしまう気がして、何も言えなかった。
けれど、せめて謝罪の言葉だけでも。
声にならない言葉が何度も唇を揺らす。彼の腕からそっと離れ、真正面から視線を交わす。
「アルフェリード公爵……私は……」
声が震える。けれど、それでも言わなければと。
「――父上、だ。」
迷いのない慈愛と赦しが、淡々と、ミリエルのひび割れた心の奥に染み込んでいく。
「辛くなったら、いつでも戻ってくるがいい。お前の部屋はそのままにしておくよう言っておく」
まだ人格も記憶もなく、目に映るものすべてが初めてで、ただ笑うことしか知らなかった“純粋なミリエル”だった頃。
公爵の腕のなかで小さな両手をばたつかせ、アウアウと意味もなく笑っていた私の額に、公爵は、何度も、何度も、当たり前のように、やさしく口づけていた。
それはきっと、言葉よりも先に、この人が私に与えてくれた――はじめての“愛情のかたち”だったのだろう。
そして今。
静かに身をかがめた彼は、過去の記憶をなぞるように、その額にそっと、唇を触れさせた。
まるで、失くしてしまった時間を繋ぎなおし、祝福する――騎士の戴冠のように。
溢れ出した涙は、もう止められなかった。
嗚咽まじりの呼吸が震えるたび、公爵の手が私の背をやさしく撫でてくれた。
ずっと纏わりついて離れなかった罪悪感や後ろめたさを拭ってくれるように。
しばらくして、呼吸が整うまで、公爵は何も言わずただ私をそっと抱き支えてくれた。
やがて、涙が乾くのを待ってから、公爵はいつもの声色に戻って言った。
「……私は、いずれ必ず玉座に登る。
アルフェリード家の空位となる当主の座には、お前を据えるつもりだ。心しておけ。」
――それはつまり、「王」による恩赦とともに、私はアルフェリード女公爵として、名実ともに迎え入れられるということなのだろう。
泣きじゃくる私に向かって、その声はただ静かだった。
私はもう、怒られた子供のように頷くことしかできなかった。
……もしかしたら、すべて計算の上だったのかもしれない。
今この瞬間にも、公爵の頭の中では、何十手先の盤面が動いているのかもしれない。
けれど。
それでもいいと思った。
私はこの人に、必要とされている――
いまこの瞬間に、そう“感じてしまった”から。
私の魂の本質は、三度の転生を経て、およそ三百年もの人生を積み重ねてもなお――
きっと、何も変わっていない。
どれだけ巡っても、誰かに必要とされる、ひとつの場所を、求め続けてしまう。
* * *
翌朝、屋敷の馬車寄せまで、公爵夫妻が見送りに出てきてくれた。
そのとき私は、はじめて「母の立ち絵」を見た気がした。
いつもは俯いて、前髪で表情が隠れていた母。その姿が、この日は違って見えた。
「……いつでも、戻っていらっしゃいね」
そう言って、彼女は私を優しく抱きしめてくれた。
まるで——本当の母親のように。
不意にそんなことを思って、戸惑った。
服越しに感じた母の久方ぶりの体温は、
思い出のなかよりも、ずっとあたたかかった。
(厄介払いできたから、優しくなれたのかな)
(意外と、図太くて現金な人だったのかもしれないな)
……そんなふうに、冷めた視線で母を測ろうとする自分がいた。
けれど、それは結局、
“愛されること”に不慣れな子どもの、照れ隠しに過ぎなかったのだろう。
——後になって、公爵から聞いたんだ。
母はずっと、悩んでいたのだという。
自分に何か欠けていたのではないか。
接し方を間違えてしまったのではないか。
そのせいで私が、“普通じゃない子”になってしまったのではないか、と。
先妻の子たちと私が比べられることを。
――そして、比べてしまう自分自身を。
だから私には、妹も弟も、いなかったのだとも。
私が転生者だと知って、
彼女を縛っていたその鎖はようやく、ほどけたのだそうだ。
……彼女らしいな、と思った。
きっと、公爵の伝え方も巧みだったのだろう。
もし、もっと早く、
“ちゃんと話そう”って思えていたら──
静かな夜に、枕を抱えて両親の部屋へ行き、
「おとうさま、おかあさま、おはなしがありますの!」
と口にしていたなら――
きっと、違う物語があったのだろうと思う。
けれど、それはもう、ありえない“もし”だった。
私は静かに一礼し、
生まれ育った公爵家をあとにした。
石畳の上を、馬車の車輪が規則正しく刻んでゆく。
その音が、まるで私の胸の奥を撫でていくようだった。
†
……それから少ししてから、私は“姉になる”ことを知らされた。
ハイエルフの人生のリズムでは珍しくないことなのかもしれない。
母も、結婚できる年齢になってすぐにこの家に嫁いできたそうだし。
でも、自分が結婚してもおかしくない年齢になってから、妹か弟ができるなんて。
正直ちょっとなんだか恥ずかしくて、
思わずまた、あのころの「悪役令嬢」の顔で口をとがらせそうになった。




