4 平民エルフが落ちるとき
私の拳――後に貴族学院の黒歴史の中で「人格矯正拳」と名付けられることになる鉄拳――が唸りをあげた、その直後。
聖堂は、割れたグラスのような悲鳴と、祭りのような歓声で真っ二つに裂けた。
吹き飛ばされたのは王太子だけではない。
その背後で「我らこそ正義」フォーメーションをキめていたモブイケメンたちも、まとめて派手に転がっている。
……まあ、死んではいないはずだ。
王太子は盛大に吹っ飛んで気絶する。
そこまでが、さっき私が組んだ脚本だ。
殺すつもりで殴るとは言ったが、本当に死なれたら困る。
取り巻きのモブイケメン達は、ぴくりとも動かない。
たぶんあれは気絶じゃない。
「巻き込まれた被害者」という体でやり過ごすための高度な政治判断だろう。
賢い。嫌いじゃない。そういうとこだけは。
そして。
パイプオルガンの前から、あのショタエルフが倒れた王太子のもとへ駆け出していく。
「だ、大丈夫ですか……」とでも言いたげな表情で、白い顔をさらに白くして。
……どんだけお人好しなんだよ、アイツ。
まあ問題ない。
彼には事前に何も知らせていない。
ただ「扇が開いたら弾いてくれ」と頼んだだけの、善意のアルバイトだ。
報酬の受け渡しも、目撃者つき。
証拠も証人も揃っている。
万が一のときは、家名を出しただけでその場の空気が変わる生徒が、彼の無実を証言してくれる手筈になっている。
完璧だ。
――よし。
舞台の安全確認、終了。
それじゃあ改めて。
目の前の少女に、集中しよう。
王太子という絶対的な後ろ盾が、文字通り木っ端微塵となった今。
つい先刻までその腕の中にいた平民エルフの少女――リゼリアは、腰を抜かし、青ざめた顔で子猫のように震えていた。
歯がカチカチと鳴り、恐怖のあまり後退ることすらできない。
ミリエルは、その様子をしばし見下ろした後、ゆっくりと片膝をつく。
「なあ──」
舞台の照明のように、ステンドグラスの光がミリエルの横顔を照らす。
「あそこで泡吹いて転がってるヤツが、本気で──
お前の人生を預けるに値する人間だと、思ったのか?」
リゼリアの視線が揺れる。
この娘は、ほんの少しだけルートを外してしまっただけの、乙女ゲームの主人公。
貴族学院の片隅で、自分の居場所をなくし、優しいだけの王子様にすがった少女。
──わかるよ、全部。履修済みだからな。
人間やってた頃の「私」は、乙女ゲームだけが日々の慰めだった限界OLだった。
夜景を見下ろしながら、スチルのスクショを溜めていた頃を、私はちゃんと覚えている。
ちなみに編集部に異動になってからは、作品をマーケ側でしか見れないようになって、ホストクラブに通い始めたのは、また別の話。
だから。
「自分を安売りすんなよ。」
ミリエルは跪き、そっと人差し指で、リゼリアの涙を掬う。
涙は、驚くほどあたたかかった。
「貴族ばっかの学院で、誰にも必要とされなかった……
そんな中で、優しい言葉をかけられて、舞い上がっちまったんだろ?」
リゼリアの唇が震える。
喉がひくりと動き、かすかに、目が潤んだ。
「そんな安い生き方すんな。
ツラは悪くないんだ。もったいない。」
──トゥンク。
リゼリアの胸が、小さく鳴った。
「悪かったな……アイツより先に、
お前を見つけてやれなくて」
リゼリアの瞳が揺れ、長い睫毛の影が頬に落ちる。
恐怖に縛られていた表情が、
ふっとほどけ──
ほんの一瞬、熱を帯びた光が宿る。
その瞬間、私は確信した。
よっしゃぁ……!
この娘、いま、完全に、
“戻れない一線”に片足かけた!
……いや、良い。良いぞリゼリア。
ハイエルフは美人すぎるんだよな、あれ。
美人と可愛いの比率が8:2くらい。ちょっとツンとしすぎる。
でも平民エルフだと、6.5:3.5。
黄金比。最適解。
――爆上がりするテンションを、喉の奥で噛み殺す。
落ち着け、私。
ここで焦ったらナンバーにはなれない。
歌舞伎町が私に教えてくれた人類の叡智だ。
乙女ゲーの世界でも。
正解ルートはいつだって、一番甘い選択肢のひとつ手前だ。
「強制はしない。YESだったら目を瞑れ」
顎に添えた指先。わずかな導き。
少女のまつ毛が震え、やがて、静かに伏せられる。
逃げ場を失った小動物が、それでも差し出された掌を信じてしまうように。
唇が触れる。
まるで、そこに在るべきものが、あるべき場所に落ち着いたような、自然な重なり。
細い吐息が混じり、呼吸と心拍の境界が曖昧になっていく。
淡い光が、ほどけるように消える。
ミリエルは、耳元へ口を寄せた。
「寂しかったら、あたしの部屋に来い」
危険なほどに甘い響きが、少女の凍りついた理性を溶かしていく。
「朝まで優しくしてやる。」
静かに囁く声が、リゼリアの尖った耳を灼く。
そして、最後に。
「……なるべく早く来いよ?
お前を抱けないまま死罪になるのは、心残りだからな。」
──ああ、こんなイケメンに抱かれたい人生だった。
特に、一番最初の人生で。




