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一刀の香 ③
視線が自然と器に向かった。釉薬が深灰色の景色を描き、どこか曇天の月を思わせる。
「この器は、陶芸家・南條理一の作。志野焼の技法を継承しつつ、酸化還元焼成で生まれる釉のにごりを活かしています」
美咲の声が、まるで静かな水面に石を落とすように神谷の思考を揺らす。
「この器には“未完”の思想があります。完璧な形は、料理の余白を奪いますから」
未完。神谷は、完成させること、論理で制御することを信条としてきた。だが、今目の前にあるのは、あえて「仕上げすぎない」ことで全体を引き立てていた。
一皿を食べ終えたとき、神谷はふと、仕事のことを思い出そうとして――できなかった。
(これほど非合理で、これほど…腑に落ちる味があるのか)
手を止め、器の中に残ったわずかな水滴を見つめる。それはまるで、月の光を宿していた。
静謐な時の中で、神谷は確かに何かを失い、何かを得ていた。
合理では語れぬ、温度を持つ価値。
そして、人間らしさという名の“余白”を。




