火と時間 ①
神谷は、自分の性格をよく理解していた。
──待てない。
行列が嫌い。渋滞も嫌い。湯が沸くのさえ待てない。
ましてや、会社の意思決定に「熟す時間」が必要などという発想は、
彼の辞書にはなかった。
だが、あの「饗」に通うようになってから、
時計を見ずに食卓に座るようになった。
むしろ、「待つこと」が、少しずつ、楽しみにすらなっていた。
「本日は、“火”の章です」
美咲は、あいさつ代わりにそう告げると、
いつもとは違う部屋へ神谷を通した。
それは、店の奥、囲炉裏のある小間。
囲炉裏にはすでに炭が熾っており、柔らかな橙の光が漂っている。
「今日は、厨房を見ていただきます」
そう言って、鷹野自らが現れた。
厨房奥の炭火台。
一本の太刀魚が、串に刺され、じり…じり…と静かに焼かれていた。
神谷は思わず訊く。
「これ…焼きっぱなしにしないんですか?」
「しません」
鷹野は炭の位置をほんの数ミリずらした。
「炭は“置く”ものじゃない。火は、“育てる”ものです。
生きてるんですよ、火は。風が吹けば、機嫌も変わる」
串をくるりと回しながら、鷹野は続けた。
「この魚も、すぐ焼くと身が跳ねる。だから、まず冷蔵庫から出して常温で“目覚め”させる。
火に当てるのは最後の最後。“整った時”に、一気に“通す”」
「整った時…」
神谷はその言葉の重みを噛みしめる。
やがて、太刀魚の塩焼きが供された。
添えられたのは、ただの酢橘ひとつ。
それ以外、何もない。
いや、何も“要らない”と、器が語っているようだった。
「火入りが絶妙です」
神谷はそう言ってから、自分の口から出た言葉に驚いた。
「魚は火を通すとき、“肉より音を聴け”と言われます。
じゅっ、じりっ、…しゅぅ。
この音の変化が、味の変わり目なんです」
鷹野は火ばさみを閉じながら言った。
「早すぎてもダメ。
遅すぎてもダメ。
人生と同じです」
神谷の胸に、その言葉が深く突き刺さった。




