第1章『小学生』
(1947年〜1953年)
石井統は、物心がついた時から蔵本家に住んでいた。母親に、姉が三人と妹が双子で二人、そして同い年の男児がいた。もともとその家には父親と二人の兄もいたが、男どもは全員先の戦争で戦死していた。そのために男が少なく、八人家族の中で女が六人と男が二人と、男女比が不釣り合いになっていた。彼はそんな状況なのは仕方がないと割り切っていた。そして自分だけ苗字が違うことに関しては、何一つとして気にしていなかった。さらにその理由も、幼児の彼には分からないのであった。
小学校に入学したのは、戦争が終わった翌年のことである。共に蔵本家に住む同い年の男児、渉と共に学校へ行き、二人して此処より始まる学校生活を楽しみにしていた。翌年に嫁入りの決まっていた一番上の姉に仕立ててもらった学生服を着て歩く二人は、誰がどう見たって兄弟に思えたであろう。
彼らが住んでいたのは、四分割された東京の中でもアメリカによって支配されていた地域である。そこは普通教育が推奨され、男女差別なく、六年の小学校と三年の中学校を受ける義務が出ていた。だから彼らは学校へ通っている。義務である以上、通わざるを得ないのだ。
教室は一学年に一学級だった。あの空襲の影響で児童数が少なかったからである。とはいえ、一学年に四十人ほどいたものだから幼児がそう簡単に人を覚えられるはずもなく、彼らが全員を把握したのは入学から数週間が経った頃であった。
その頃にもなると、もう仲良し組というものが確立してくるものである。統と渉はもちろん二人でいる事が多いが、それに加えて渉の隣の席の『鈴川瑠璃』という少女と、その親友の『護近八重』という少女を含めた四人での活動が多くなっていた。
瑠璃と八重は、お互いの家が近くて昔から遊んでいた仲だった。所謂『幼馴染』である。そして彼女たちから見て、統と渉の関係もそれと同じように映って見えたのだった。だから彼女たちは、幼馴染二人組が二組集まってできた集団であるとばかり思っていた。
その考えが誤解だったことを瑠璃と八重が知ったのは、その年の暮れのことであった。
雪の降る寒い日に、四人は渉の家で遊ぶことになった。今まで放課後に集まって外で遊ぶことはあったが、誰かの家の中で遊ぼうとすることはなかった。空襲で全員家を失い、家という話題をそう簡単に振ることができなかったからだ。空襲から一年以上が経ったこの年でも、まだトタンで造られたような家に住んでいる人は少なくなかった。もし話を振って、その相手がそういう仮住まいだった場合、気不味くなるのは目に見えている。誰もがそう思っていたので、家の話題に関して触れることができなかったのだ。だがまあ、ここにいる全員はもう再建を済ませたそれなりの家に住んでいたのだが。
渉の家に行くという話になったのには理由があった。最初はいつもどおり外で遊ぼうと考えていたのだが、あまりの寒さに話すことすらも儘ならず、その様子を当時中学三年生だった渉の二番目の姉が見つけて家に呼んだからだ。
「渉も統も、家に招いたって別に構いはしないのに」と彼女は云い、四人を率いて家まで帰ったのだった。
家に着くや否や、統が我が者顔で居座るものだから、女子二人は驚きの念に苛まれた。
「統くん。渉くんのお家なんだから、もっと畏まらなきゃ」と正座した瑠璃が云った。それを聞いた二番目の姉が笑い転げて、
「統が畏ったのなら、私たちはどう接するべきなのか困ってしまいますわ」と云った。
「そこまで不思議なものでございますか」
などと八重が訊いたとき、その姉は、
「家族に畏まられるのが最も困ることでありますよ」と返した。この返答で、瑠璃と八重は統が渉の家に住んでいることが分かった。そんな二人の顔色を見たのだろうか、その姉はさらに付け加えた。
「統は戦争で家族を失っているのです。それだから、私たちが引き取って面倒を見ているのですよ。もう家族同然ではありませんか」
瑠璃と八重は、その言葉の重さを良く理解した。二人はこれ以降、統の過去についてを言及することは無かったように思う。とはいえど、二人が統の過去を今までに言及したかと問われれば、そんなこともまず無かったと云えるのであるが。
時が経ち、五年生になった。この頃になると、焼け野原だった東京の街は光を取り戻し始め、地方に疎開していた人々も戻り始めた。そのため、転校生が多かった。いよいよ学級が二学級欲しいかと思われたが、なんとか一学級で抑えられる人数で落ち着いた。その数多くの転校生の中、特に異彩を放っていたのが、佐倉財閥の末の娘、佐倉凛であった。
凛は、小柄で清楚かつ整った顔をしていて、それで以っていつもいかにも高級そうで綺麗な服を着ていた。誰がどこから見てもお嬢様で、その人形のような美しさに男児は挙って魅了された。だが統や渉は、当時そんなお嬢様を特に気に留める様子はなく、綺麗な子だな、くらいにしか思っていないのであった。
男児どもは、なんとか凛の気を惹こうと努力をした。十歳、十一歳ながらにして、誰もが凛を可愛いと思っていた。また、誰もが凛と友達、あわよくば恋人になろうと考えていたのだった。
しかし、その考えは浅はかだった。美しい薔薇にも刺があるように、綺麗で上品な凛にも刺があった。
ある日、少年Aが凛を遊びに誘った。すると凛は、
「あなたたちのような下々の民と遊ぶ時間など、私からしたらただの無駄にしかなりません」と言い放った。
そしてある時、少年Bが凛に告白した時は、
「そんな気持ちを伝えただけで無駄であることを教えてあげます。私、既に婚約者がいるのです」と告げ、その場を去っていった。
そう、凛の持つ刺というものは、財閥の価値観にものを云わせ、一般の人を卑下し愚弄することであった。その光景は、誰から見てもあまりに不愉快で、多くの人の反感を買うのだった。
しかし、統と渉は彼女に一切の下心を見出していなかったため、そこまで反感を感じていなかった。そして統は、ある日渉にこう云った。
「あのお嬢様だけどな、どれだけ酷い女かを確かめに行こうと思う」
それは統の出来心に近いものであった。たくさんの男児を蹴落とした凛というお嬢様を、今度は逆に揶揄ってやろうという考えが八割を占めていたように渉は感じた。
「あまり無理にするなよ」とだけ念を押した渉だったが、それ以上を云って止める事はしなかった。
そうして、統は凛に話しかけた。
「佐倉のお嬢様。ご機嫌は如何程にございますか?」
その統の挨拶に、凛はクスリと笑って、
「失礼。あなたの杜撰な挨拶に、私少し、笑いを堪えられませんでした」と云った。統は内心、ああなるほど、卑下されるということはこういう気分なのかと思い、
「じゃあ普通に話すぜ」と、お嬢様にも自然に話してやろうと思い立つのだった。そうして統は、財閥の娘というお嬢様に対して、たわいのない世間話を始めたのだった。
統がなぜそう思ったのかは推測になってしまうのだが、無理に畏って卑下されるくらいであれば、己を曝け出して正面から向かうのが一番ではないかと思ったからであろう。当時財閥家の人間に一般人が敬語なしで話しかけることは一種の罪であった。法的なものは無いが、一般教養として、即ち常識としてそれがあった。
だから、その普通な振る舞いは凛を驚愕へと導いた。未だ嘗て凛に話しかけた男児たちは、全員一般教養のため、そして更に気を惹くために畏まり、隠すことによってむしろ見え見えになる下心を曝け出して迫ってきていた。しかし、己を曝け出して普通に話しかける統からはそんな下心を微塵も感じず、さらに云えば自分の気を惹こうとする想いすらも感じなかったのだ。
だが、いくら下心や気を惹こうとする思惑が感じられなかったからと云って、統だけに態度を変えるのは凛自身が最も許さなかった。凛は周りからの反感の買われ様を知っていて、そしてなお内心失敗をしたとも思っていた。人に変な期待をさせるくらいなら、最初から寄ってくるのすらも嫌になるような悪人になってしまおうと思ってやったのだが、これでは少々悪人になり過ぎた。これ以上の悪人になることは、凛自身が最も望まない結果であった。もしここで統にだけ優しさを出したのなら、なぜあいつだけにとさらに反感を買われるのは目に見えている。凛は一瞬の驚愕を棄て、統への態度も改めて厳格にした。
「下民が私に普通に話しかけることが許されるとでも思っているのかしら。あなた、とてつもない馬鹿なのではなくて?」
その言葉に、統は言い返そうとした。しかしその反論はできなかった。なぜなら、目の前にいた凛が足早にその場を去ってしまったからだ。
「おい待てよ」
統がそう云って凛の手を掴む。凛の手は暖かかった。しかし凛は、今まで以上に冷たく震えた声で、
「離しなさいよ」と云ったのだった。統はその手を離した。しかし統は、その手の温もりをずっと肌に感じ続けていた。
凛がこの学校を去ったのは、それから僅か三日後のことであった。
それ以降は特に何事もなく六年生になり、小学校を卒業して中学校へと入学していくのだった。




