第2章『中学1年生・上』
(1953年)
中学校に入学をした。その中学校は市内三校の小学校から生徒が集まってくるものだから、人数は急激に増えた。そして、二年ぶりの再会もあった。あのお嬢様、佐倉凛が同じ中学校へと上がってきたのだ。しかし、統や渉、瑠璃、八重がいた小学校では他人を卑下し愚弄するお嬢様として悪名知れた凛だったが、転校先の小学校では少し違っていた。その凛の評判は、
『可愛いけれど人との関わりを極度に拒む謎多きお嬢様』であった。
転校したのは二年前。その二年間で彼女になにがあったのか。彼女の性格は根本的には全く変わっていない。変な期待をさせるのであれば、もともと人が寄ってこないほどの悪人になれば良い。その考えのもと動いていたのだ。しかし、以前いた学校では悪人になり過ぎた。それが為に、善意を持って近付いてきた人をも拒まなくてはならなかった。人によって態度を変えることは彼女自身が最も許せないことであったから、彼女はその善意をも拒み、そして無下にしなくてはならなかったのだ。そうした時、彼女は心が痛かった。一体自分はどうして偽った心で人を傷つけているのだろう。そして何人の人を今までに傷つけてきたのだろうと、過去を悔やんでは不安に陥るのだった。
それがあからさまに彼女の心に出たのは統と話した時であった。今まで男児に話しかけられた時、それは大抵自分に好意を抱いた奴らであった。凛には既に婚約者がいて、それは家庭同士での話し合いによって決められたものであった。だから彼女は、自分と誰かが付き合うことなどできないことを知っていた。相手が抱いた恋心は無茶なものであり、諦めさせる為に、というかそもそも近寄ってこないようにする為に冷たくしていたのだ。
しかし、統の場合はどうだろう。彼が彼女に近寄った理由は好意ではない。彼女はそれを同級生としての善意だと思った。たわいのない世間話を一方的にされただけだったのだが、彼女からしたらそれは新鮮だった。今までそんな案件で近付く男児はいなかった。だから彼女は善意だと感じた。しかし彼女の性格上、人によって態度を変えることはできなかった。今まで多くの人(男児中心)に冷たい態度を取ってきたため、統にも冷たくする必要があった。そして冷たく云い放ったあと、凛は胸がキュッと苦しくなるのを感じた。目には意図せず涙が溜まり、その場にいるのが怖くなった。そして足早にその場を去ろうとしたとき、統が手を掴んできた。凛は耐えられなかった。それ以上の優しさは、かえって凛を苦しめるのだった。だから離せと告げた。凛は統の優しさを拒んだのだった。
家に帰り、親に自分が感じたことを告げた。すると親は、それではいるのが苦しかろうと云って転校の手続きを始めたのだった。そうして彼女は、隣の小学校へと通い始めたのだった。
そこでも悪人になろうと考えていた凛だったが、あまりに悪人になるのは周りの人を苦しめ反感を買い、自分の居場所を失うことに繋がると分かった。佐倉凛というお嬢様は、悪人になることを望んでおきながら同時に自分の居場所を求めていたのだ。こうやって見てみると、とても自分勝手な少女である。
ではどうすれば良いか。凛は考えた。そこで出た結論は、誰とも交流をしないでただただ座っていれば良いのではなかろうかということだった。そうと決まれば実行。凛は学校でひたすらに座り続けた。誰が話しかけても無視し続け、返答が欲しいことに関してはなるべく短く、そしてはっきりと返した。そんな生活を二年ほど続けて小学校を卒業。卒業するまでに関わった人間は、片手で数えるほどであった。
そんな具合に過ごしていたことから、評判は『可愛いけれど人との関わりを極度に拒む謎多きお嬢様』となったのだった。
凛は転校先の小学校では我ながら上手くやったと思っていた。中学もそうやって乗り切ろうと意気込んでいたが、そうもいかないのが現実なのであった。
通うようになった中学校には、もう一つの小学校から来た生徒もいる。その中に『三井信之』という少年がいた。三井というと大財閥である。そして信之はその三男坊に当たる人であった。その信之こそが、凛の婚約者なのであった。
信之は正直面倒な男であった。なんでも自慢したがり、自分は他の人とは違うのだといつも威張ってばかりだった。「俺は三井の三男坊だ」とか、「お前らと違って既に婚約者がいるんだ」とか、人と違うことをとにかく自慢していた。小学校の時代からそれはずっとそうで、誰からも鬱陶しいと思われていた。
信之は家同士で決められた結婚に納得していた。それは単純に凛が好きだったからというのが強い。小柄で大人しく可愛らしい容姿で、彼からしたら好みだったのかもしれない。だから彼は、凛に不要な接触を多々した。
「やあ、凛。君、今日も可愛いなぁ。さすが俺の婚約者だ」
などといったことを云って、毎日のように現れた。凛からしたらそれはいい迷惑だった。自分は静かに生活したいのに、この信之という男がいるせいでその望みは絶たれたのだ。
信之は凛のことを好きだったが、凛は大して信之が好きでなかった。というよりむしろ、こんな鬱陶しい男と結婚するくらいなら一生独り身でも良いと思っていた。毎日自分の生活に騒がしさが混ざって、全く以て平和に過ごせないのであった。しかし、家同士の意向には逆らうことができず、凛は嫌々ながら将来を見据えて、彼だけを自分と関わっても良い人としたのだった。……だがしかし、それはあまりにも鬱陶しい日々の幕開けでもあったのだが。
その光景は、統や渉、瑠璃や八重にも鬱陶しく映った。
「なんでか知らんが、三井を見ているとすごくイライラするんだが」
ある日統がそう云った。
「ま、三井は存在しているだけでうるさいしな。佐倉のお嬢様も不運だよな。あんな奴が婚約者で」
渉がそう云うと、
「似たもの同士ってとこじゃないの?」と瑠璃が云った。
「そんな似ているようには思えないけど」
と統が云うと、
「女子の中では凛ちゃんはかなり嫌われてるのよ。私はそんなでもないけど」と八重が云った。
「なんだ、あのお嬢様は裏で金に物言わせてなんかやってんのか?」
渉がそう訊くと、まさかと瑠璃が笑った。
「あのね、ああいう風にうざがってるように見えて実は全く拒んでいないってのが一番嫌われるのよ」
瑠璃がそう云って、ほらと凛に指を刺した。その先にいる凛は、信之の一方的な話をぼんやりと窓の外を眺めながら聞いていた。
「どこがだ? 思いっきり拒んでるじゃん」
統が瑠璃に訊く。すると瑠璃は首を横に振った。
「全く。拒んでるならあの席にいないわよ。とっとと移動した方がいいでしょ? 止まってるだけ狙われるもの」
「そんなもんかなぁ? お嬢様だって、そこまであからさまに嫌いたくはないんじゃないの?」
渉がそう云うと、今度は八重が、
「一緒にいても評判が落ちるだけで益はないのに?」と云った。
「益なんてどうでもいいんだろ。それに、嫌われることを嫌っているようには思えない。小学校の頃を思い出せ。全員から嫌われてたじゃないか」
渉の言葉で女子二人は思い出した。あの頃の態度から察するに、別に凛は嫌われることを嫌っているわけではない。だから信之と一緒にいるのだろうか。
「ま、その辺は直接訊いてみるのが一番じゃないか?」
統がそう云って、信之の一方的な話を聞かされている凛のところに歩いて行った。
「おい、統!」
渉が止めても、統は止まらなかった。そのまま凛に近づいて、
「よお、久々だな」と凛に話しかけた。……信之を放置して。
「……あんのバカが」
渉は心底統の空気の読まなさに呆れた。
「ほっときましょ。あとは統がどんな情報を持ち帰ってくるか。あたしたちはそれを待ちましょ」
そう云って、瑠璃は八重を連れてその場を去った。
「……ったく」
渉も二人に続いてその場を去った。渉の去った場所から数メートル先の窓際に、三人の人影がゆらゆらと揺れていた。
「よお、久々だな」
その声を聞いて、凛は窓から目を離した。視線の先に、見知った男がいた。転校をする原因を作った男であった。
「おい、石井! お前いま俺が会話していたのが分からなかったのか? 俺とこいつは婚約者だ。お前はカップルの間に入り込んだ空気の読めない奴だ!」
横から信之が怒鳴った。それを哀れ目で見つめて統が訊いた。
「会話……。会話をしていたのか?」
「そうだ!」
「ふぅん。信之は相槌もなにも無いような一方的な話を会話と云うのか?」
「てめえ、俺を呼び捨てにしやがって! 俺はお前とは違う! お前みたいな愚民ではない! 大財閥、三井の三男、信之だ!」
「肝心の答えを云っていないじゃないか。まあいい。都合の悪いことを隠蔽するのは財閥の得意とする技だもんな」
「クソがっ!」
信之は激怒した。統を思いっきり殴り飛ばそうかと思うほどに。しかし、実際そうしなかった。問題を起こす気にはなれなかってからだ。
「ふふっ」
横から大人しい笑いが聞こえた。その声は凛の声だった。
「なにがおかしい?」
信之が凛にそう訊くと、
「いいえ、別に。ただ、その通りだなと思いまして」と答えた。
「なにがだ?」
信之がそう訊くと、
「隠蔽の話ですよ」と凛が答えた。そしてサッと立ち上がり、統をジッと見つめた。見つめたといっても、凛は身長が低いものだから統を見上げる形になるのだが。そして、
「石井さん。信之さんが私に話しているところに割り込んでくるのはやめてください。気分を害するものですので」と述べて、統に軽く会釈をした。そしてそのままスタスタと去って行った。
「ほらみろ! 愚民は俺の妻には相手にされねえんだよ! あっははは!」
信之がそう云って、統の頭に掌を乗せてわしゃわしゃと髪をかき乱した。数回かき乱した後、頭から手を退けて凛の後を追うように去って行った。
「……気分を害するのはこっちだ」
統はこの案件以降、学校で一度も自ら信之に話しかけなかった。
「へえ。じゃあやっぱり一緒にいるのを嫌がっているわけではないのね」
統の話を聞いて瑠璃がそう云った。
「ったく、なにが『気分を害する』だ! こっちももうお断りだね!」
その話をした統は怒っていた。
「珍しいこともあるのね。統くんが怒るなんて」
八重がそう云うと、
「そんな珍しいことではあるまい」と渉が云った。
「こいつは以前、味噌汁の具材が俺より少なかったことに怒って三姉に云いつけたことがある。そんなことで怒るような小さな奴が、この件で怒らないはずがないだろ」
三姉とは、渉の三番目の姉のことである。
「味噌汁の具材で怒るなんてことあるんだ」
瑠璃がクスクスと笑った。それを統がギッと睨んだ。瑠璃がその目に気付き、即座に真顔に戻った。
「でもそうよね。お味噌汁の具材は大事よね」
と八重が云うと、
「今はその話はいいだろう」と統が不貞腐れたように云った。
「なんだお前。過去のこと蒸し返されて怒ってんのか?」
渉がそう訊くと、統はさらにムスッとして、
「別にそんなんじゃねえし」と云った。そして鞄を掴んで、
「帰る」と云って席を立った。
「おい、まだ帰りの会が……」
そう声をかけた時には、統は既に教室から出ていた。
「ありゃ明日廊下掃除決定だな」
渉がそう云うと、女子二人がクスクスと笑った。
「というか、結局統は訊きたいことを聞き出せなかったのよね?」
下校中、瑠璃が訊く。
「まあそうだな。拒んでいないことは分かったが、益の有無については何も訊いてないな。まあ話しかけると気分を害するからやめろと……」
渉が答える。しかし渉は、そこまで云いかけてやめた。自分の返答に違和感を覚えたからだ。
「どうしたの?」
八重が渉に訊くと、
「気分を害するのは、あのお嬢様なのか?」と渉が呟いた。
「知らないわよ、そんなの」
瑠璃がそう答える。
「いや、おかしくないか? 統の話を聞く限り、お嬢様は笑っていて全く気分を害したようには思えなかったが」
「たしかにそうね。むしろ、気分を害していたのは三井くん……」
八重がそう云って、ハッとした。
「そうだよ! 気分を害するのは三井くんなんだ! 凛ちゃんは全く関係ない!」
「ああ、俺もそう思う」
八重と渉の会話に瑠璃は入り込めなかった。
「えっとつまり……どういうこと?」
瑠璃が訊くと、
「じゃあ問題。三井くんが一方的に話しているときに凛ちゃんに話しかけると、気分を害されるのはどっちだと思う?」と八重が瑠璃に問題を出した。
「え……それは三井じゃないの?」
「ピンポンピンポーン、大正解!」
最後の言い方が完全にバカにしているように思えた瑠璃だったが、怒れる気持ちを抑えて頭を整理した。
「つまるところ、あの時凛ちゃんが統に云った『気分を害するものですので』の主語は、三井ってことよね?」
「そうだな。そうなる」
渉がそう答えた。その返事に瑠璃は多少の感動を覚えた。しかし直後、これが分かったからどうしたのだろうかという念に苛まれた。
「それで、これが分かって何になるというの?」
思い切って訊いてみた。すると渉と八重はキョトンとして、
「あ? これだけだぞ?」
「え? これだけよ?」と返した。瑠璃は拍子抜けした。
「つまりこの内容、別にどうでもいいってことじゃない!」
思わず叫んでいた。
「静かにしろ、住宅地だ。それにそうでもない。これが分かれば、あのお嬢様に話しかけることはできる」
渉がそう云って、
「じゃあ明日、瑠璃がお嬢様に話しかけてこい」
と云った。そして道を折れて、
「じゃ、俺はこっちだから。頼むぞ!」と云って走り去った。
「私もこっち! じゃあね」
八重もそう云って去った。
「どうしてそうなるの!?」と反論する暇すら与えてくれなかった二人は、疾風の如く走り去った。残された瑠璃は、ただひたすらに二人が走っていくのを眺めていた。
「……凛ちゃん、あたし少し苦手なんだけど」
そう呟いて、ため息を吐いた。




