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閏年計画  作者: 椎名円香
第一章 定数
26/60

追憶

ご閲覧頂き誠にありがとうございます。

 彼はもう完全に冷静さを欠いていた。その原因は明らかに僕にあったが、同時に彼のものでもあった。その余裕の仮面が長続きしないことは、藍華のときによく分かっている。どうやら僕はああいう素直な押しに弱いらしい。突然のピンチに弱いのが、僕にとって一番の欠点だった。その小さなほころびを隠すための仮面だ。しかし、それが脆ければ何の意味もない。現に彼は今かなり苦しい言い訳で自身を擁護していた。歪んでいく顔に余裕のなさが見て取れる。

 そんな彼を、藍華は哀れみのこもった視線で見つめていた。憂いを帯びた瞳は潤んでいるようにも見える。手は小刻みに震えていた。怖くないはずがない。いくら精神年齢が現実に近づいてきているとはいえ、中身は十代の少女なのだ。こうやって踏み出すのにも、よほどの覚悟を要したに違いない。それでもこのタイミングで覚悟を決めたのは、僕一人の力ではこの先彼をこれ以上怒らせずに会話することが難しいと察したからだろうか。

 一方、雨帝の顔は髪に隠れてほとんど見えなかった。僕と藍華を庇うようにして立つ様はお伽噺の騎士のようで、痛いほどに覚悟を伝えていた。どうすればこの人をここから救い出せるのだろうか。そんな思いが思考を占める。しかし今は目の前の彼が優先だ。僕は顔を上げて閏を直視した。よほど言葉に詰まっているのか唇を噛み締めるようにして小さく唸っている。しかし我慢ならなくなったのか、ついに声を荒げた。

「じゃあ……なんだよッ! 聖人君子みたいに、まさしく根っからの善人になれっていうのか?」

 ついに笑みの崩れた表情かおに、今度は確固たる怒りが浮かぶ。空気が振動し、砂塵が空を舞った。世界が軋む音がする。それでも僕はひるまずに叫んだ。

「善人にも聖人君子にもなれなくていい。弱さも、悪意も、傷も、何もかも! 全部抱えて、僕は生きたい!」

「——そんなッ!」

 もう完全にやけくそだった。だだをこねる子供の姿だった。けれど、それを分かった上でやっている分子供よりも断然質が悪い。

 それを両隣の二人も理解しているのか、同時にため息を吐いていた。藍華は言葉をためるような、雨帝は呆れたようなため息だった。

 そんな僕たちの前で、彼はまだ足掻き続ける。

 彼が本心を吐露するまで。

「そんな生き方がッ! できるわけ、ないだろ——」

 語尾に近づくにつれ声はだんだんと小さくなり、最後はほとんど聞こえなくなった。その場に崩れ落ち、膝をつく。両手は固く握りしめられ、その瞳には涙が浮かんでいた。そんな彼を、僕は複雑な気持ちで見守る。彼の本心はどこにあるのだろうか。そんな生き方ができるわけがない。彼はそれを理解している。分かりきっている。それでも自分の行為を善意から生じると言い放った理由は何だろうか。保身、慢心。そのどちらでもないはずなのだ。彼はもっと、どうでもいいことのために自らを誇張したはずだ。しかしその『どうでもいいこと』が分からない。彼は一体、なんのために今ここで僕たちと対峙しているのか。

 彼の真意が、掴めないのだ。

 本心まで、あと。

「そんな生き方ができてたら、こんな世界、できないって……」

 ぽつり、と。

 幾何学的な世界に涙が滴り落ちる。その透明な粒はどこにもない光を反射して煌めいていた。

 初めて自分の涙を見た。

 けれどそれは結局ただの雫でしかなく。

 思いは零れ落ちるどころか更に堆積して凝固していった。

「……」

 すると雨帝は息を漏らし、胸ポケットから何やら取り出した。そして、声を殺して涙を流す閏に近づいてそっとしゃがみ込む。取り出したのはハンカチのようだった。何も言わずに差し出す雨帝に、彼はしばし動揺してから軽くその手を払った。雨帝はもとから予想していたのか大して驚く様子もなく立ち上がる。僕の隣には戻らず、閏のそばでただただ呆然と立ち尽くしていた。一方彼の方は、咳くようにして声を詰まらせた。

 それは嗚咽によく似ていて。

 堰を切って流れ出した濁流のように。

 彼が本心を吐露するまで、あと。

「嫌だ……。同情しないでくれ、優しくしないでくれ。哀れまないでくれよ。もう放っておいてくれ。そんなに期待しないでくれ。過大評価しないでくれ。僕はそんな真っ当なやつじゃない。構わないでくれ。それ以上近寄らないでくれ。勝手に期待して絶望しないでくれ。何でもできると思わないでくれ。そんな目で見ないでくれ。嫌だ。見捨てないでくれ、僕を置いていかないでくれ。これ以上、離れないでくれ。頼むから……」

 零秒。

「誰でもいいから、助けてくれよ」

お読み頂き誠にありがとうございました。

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