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BAKE-MONO  作者: 森村征爾
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第2章 第2話 育ての母親(過去編)

早苗の腹は大きく膨らみ、いつ産気づいてもおかしくない頃になっていた。


山深い猟師の家まで、産婆が来ることはない。


「ここで産むんじゃ」

早苗は、そう決めていた。

その日、陣痛が始まった。


「お湯を沸かして。布も用意して」


「お、おう」

夫は慌てて囲炉裏に薪をくべた。


その傍らでは、三兄弟が身体を寄せ合って眠っている。


早苗は痛みに耐えながら、何度も三匹へ目を向けた。


「もう少しじゃけんね……」

やがて陣痛は強くなり、早苗は何度も力んだ。


「早苗、もう少しじゃ!」


「ううっ……!」

大きな声に、仁が目を覚ました。


いつもと違う早苗の様子が気になったのか、仁はふらふらと足元へ近づいてくる。


「危ないけん。来たらいかん!」

早苗が手を伸ばす。

払いのけられた仁は、早苗の足元へ転がった。


そして、


「産まれたぞ!」

夫の声が小屋に響いた。


だが、小さな赤子は泣かない。


「……おい」

夫は赤子を抱き上げ何度も背中をさすった。


「泣け……泣いてくれ……」

返事はない。

小さな胸も、動かなかった。


夫の手の中で、赤子の身体から少しずつ温もりが失われていく。


「早苗……」

呼びかける声が震える。

けれど早苗は、すでに力尽きて眠っていた。


夫は赤子を胸に抱いたまま、ただ座り込んだ。

妻に、何と言えばいい。


「……すまん」

それしか言葉が出なかった。


そのときだった。


床に落ちた血の匂いを嗅ぎつけ、仁が近づいてきた。

仁は床に残った早苗の血を舐めた。


次の瞬間、身体が大きく震えた。


「……なんじゃ?」

夫が振り返る。


小さな狼の仔だった仁の身体が、ゆっくりと変わっていく。

四本の脚が伸び、胴が人の形へ変わる。

だが、完全な人ではない。


脚は獣のように長く太く、上半身には薄く毛が生えている。

頭には、あの赤い筋が残っていた。


夫は息を呑んだ。

昔、年老いた猟師から聞いた話が脳裏によみがえる。


――狼の化け物。


山に棲み、人の姿に化けるもの。


「…狼の化け物じゃ」

夫の顔から血の気が引いた。

夫は台所へ走り包丁を掴む。

そして仁へ向き直った。


仁は、ただ夫を見ている。

まだ何も知らない幼子の目。


夫は包丁を握ったまま、動けない。

殺さなければ。

頭ではそう思った。

だが、その横には生まれたばかりの我が子がいる。

そのすぐそばでは、妻が眠っている。


目の前には、自分が母親を奪った三匹の仔の一匹がいる。

夫の脳裏に、川辺で見た母狼の姿が浮かんだ。


自分が撃った。

血を流しながら、それでも仔を産んだ。

そして、自分がその仔を連れて帰ってきた。


「……また、わしが奪うんか」

包丁を握る手が震えた。


「……もう、奪えん」

包丁がゆっくりと下がった。


「……あんた」

早苗が目を覚ました。


夫は振り返ることができなかった。

早苗は夫の様子を見て、何かを察した。


「赤ちゃんは……?」

長い沈黙。


やがて夫は、赤子を抱いたまま首を横に振った。


「……すまん」

早苗は目を閉じた。

声を上げて泣くこともできなかった。


ただ、両手で胸元を押さえ、

「そう……」


夫は赤子をそっと布で包み、早苗は

その小さな身体を抱いた。


まだ温かい。

「……うちの子」

頬に触れる。


「よう頑張ったね」

何度も撫でる。


「ごめんね……」

涙が一滴、赤子の頬に落ちた。


その涙を拭うように、早苗の指が小さな頬を撫でる。

しばらくして、早苗は静かに赤子を夫へ渡した。


夫は家の裏手に、土を掘り赤子を埋める。


早苗はその前に座り、手を合わせていた。


三兄弟は仔犬の姿で、少し離れたところから早苗を見ている。

仁は何度も早苗の足元へ近づこうとした。

だが、途中で立ち止まる。


早苗は仁を見た。


赤い筋のある小さな頭。

母を失った仔。


「……おいで」

仁が近づいてくる。


早苗は両手を広げ仁を抱き上げる。

その身体は小刻みに震えていた。


「お前も、母さんがおらんのじゃね」

仁は何も答えない。

ただ、早苗の胸に顔を埋めた。


早苗は、しばらくその背中を撫でていた。

やがて、足元に臨と智も寄ってくる。

早苗は二匹も抱き寄せた。


「お前らも……寂しかったんじゃね」

夫は、その姿を黙って見ていた。

早苗の子が戻ってくるわけではない。


この三匹が、亡くなった我が子の代わりになるわけでもない。


「あんた」

早苗が夫を見る。


「この子ら、育てよう」

夫は静かに頷いた。


「……ああ」

その日から、早苗は三兄弟を我が子のように育てた。


乳を与え身体を温め眠るまで古唄を唄い側にいる。


〽お前は誰ぞ 誰ぞや

人の子なりと 答えけり

されど本当は 誰ぞや

獣なりとて 月が嗤う

人か獣か 誰ぞや


三兄弟は少しずつ早苗の声を覚えていった。

早苗もまた、三匹の鳴き声を覚えていった。


自分の子を失った悲しみは消えない。

墓に手を合わせるたび、胸は痛む。

その痛みを抱えたままでも、目の前の命を守ることはできる。


三兄弟もまた母狼を失った悲しみを知らぬまま、早苗の温もりの中で育っていく。


普段は狼の仔の姿をしている。

血を舐めると身体が熱を帯び、人の姿へと変わる。

そして、月の光を浴びたときにも、人の姿になることが分かった。

夫から狼の化け物と話は聴いたが、それを知った早苗は、驚きはしてももう恐れなかった。


「仁、臨、智」


三匹の頭を順番に撫でる。


「うちらの子じゃけんね」

言葉を聞くように、三兄弟は早苗の胸元へ身体を寄せた。


母を失った三匹と、

我が子を失った一人の母。

失ったものは、戻らない。

それでも残された命は、互いの温もりを求めるように寄り添った。


こうして三兄弟は、人の家で育つことになった。

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