第3章 第6話 仁王門(面影編)
満月まで、あと二夜。
寺の夜は静かだった。
鈴は布団の中で眠れずにいる。
和尚と、あの男の会話が交互に頭の中で鳴る。
白い獣は、妻子を殺した。
その獣の目は、泣いているようにも見えたという。
どちらも本当だとしたら、智は、いったい何なのだろう。
智は、ウチの痣を個性じゃと言うてくれた。
その同じ獣が、人を殺した。
信じたい気持ちと、信じてはいけない気持ちが胸の中で何度も何度もぶつかった。
真夜中、遠くから獣の咆哮が聴こえた。
低く、長く、空へ伸びる声。
一度だけ聴いた智が三日月を見上げ人の形に変わる前の、あの声。
「智っ……!」
飛び起きた鈴は寺の入口に向かった。
雲に覆われた空に月はなく、境内を照らすのは、掲げられた松明の明かりのみ。
右手の古い傷跡が疼いた気がした。噛まれた夜の、あの痛み。
左足を引き摺りながら闇の境内を走る。
石畳の冷たさは足袋を通して伝わってきた。
一歩ごとに、左足の足袋は裂けていく。
それでも鈴は止まらなかった。
釣り鐘堂の先にある仁王門は松明の明かりを受けて立っている。
二体の仁王像の間の深い影に、四本足の獣が座っていた。
白い毛並みが、闇の中で鈍く光る。
智は鈴を見て動けなかった。
会うつもりではなかったからだ。
一目見て去るはずが満月を前に昂る身体から咆哮が漏れてしまった。
風が、鈴の匂いを運んでくる。
干し柿の甘い匂いを思い出す。
何も変わっていなかった。
松明の火が鈴の痣を浮かび上がらせている。
今、足を踏み出せば近づいてしまう。
近づけば、鈴を傷つけてしまう。
――近寄るな。
臨兄の声が頭の中で響く。
智は、門の影から出られずにいた。
二十年もの間、嘘の憎しみで固めてきた身体が鈴の前では酷く頼りなかった。
鈴も動けずにいる。
虫の声は止み和尚の言葉と男の言葉は頭の中で渦を巻く。
目の前にいるのは、干し柿を一心不乱に食べていた、あの姿。
痩せた背に、傷だらけの脚。
あの夜より、ずっと小さく見えた。
恐ろしい化け物が、「ごめんなさい」と言うじゃろか。
鈴は自分を信じ声を掛けようとした。
そのとき、獣がわずかに後ろへ下がる。
逃げようとしているのは、獣の方だった。
「……智」
名前を呼ばれて、獣の耳がわずかに動いた。
互いに、視線を外せなかった。
どちらかが動けば、何かが決まってしまう。
そのことを、二人とも知っていた。
雨の夜の神社とは違って今度は鈴だけが怖れているのではなかった。
雲が、ゆっくりと切れていく。
月光は仁王門の外へ、智の足元へと伸びていった。




