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BAKE-MONO  作者: 森村征爾
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第3章 第5話 古い記憶(面影編)

智は墓石の前で夜を明かした。

思い出せるのは母の声、そして戸口の月だけだった。

日が昇り始めたが山を下りず、上へ歩いた。

行き先は決めていない。

記憶の断片なのか足が勝手に道を選んでいた。

断片は風に吹かれた木の葉のように、頭の中を舞った。


血の匂い。誰かの叫び。背中に乗った重み。

つかもうとすると、どれも指の間から抜け落ちた。

尾根を越え、沢を渡る。

道端の岩の窪みには見覚えがある。

この道を、走ったことがある。

何かを追って…。


獣の屍が転がっていた道だ、と身体が言った。


嶺の上に、廃屋があった。


戸は開いたまま床は腐っている。

土間には子供の草履が片方、泥にまみれて落ちていた。

敷居に前脚をかけた瞬間、口の中に鉄の味が広がった。


戸口に座って、こちらを見ていた子供。

手に小さな草履を持って、笑っていた。


子を庇うように丸くなった、背中。

その腕の中の子は、もう動いていなかった。


叫ぶ男。

自分に飛び乗った仁兄。

智は、その場に崩れ落ちた。


この小屋に居た女の匂いを覚えている。

母さんの匂いの隣に、いつもあった、乳の匂い。


母さんの声が途切れた理由を智はもう知っていた…。


母さんも父さんも、ニンゲンに殺されたのではない。

仁兄はあの夜、俺を命懸けで止めた。

あれが、兄の最後の手だった。


臨兄は、全部知っていた。

俺が壊したものを一人で背負って、嘘をつき続けた。


あの夜から二十年。

嘘の上でニンゲンを憎み、仲間を探して歩いた。

憎む相手は、最初から、自分の中にいたのに。


――おれたちの分まで、生きろ。


臨兄の声が、よみがえる。

智は、床板に爪を立てた。

声にならない咆哮が、喉の奥で潰れた。


自分の前脚は白いはずなのに川面で見た赤黒い前足が見える。

爪の間にあの夜の匂いが、まだ残っている気がした。


夜が明けても、日が沈んでも、智は動かなかった。

もはや憎む相手も探す仲間も、もう必要がなかった。


あの子の草履を拾い上げることもできなかった。

月は、半分以上膨らんでいた。


ふと枯れ草の匂いに、干し柿の甘い匂いが混じった気がした。


――智が、あんたの名前で漢字がこれなんじゃね。ええ名前じゃねぇ。


鈴だけが自分の名前をそう呼んだ。


鈴に近づけば鈴を殺すかもしれない…。

満月の夜、鈴が隣にいたら…。

考えるだけで、身体が震えた。


臨兄の「近寄るな」は、ニンゲンのことだけではなかった。


なのに足は石手寺へ歩む。

せめて一目だけでも…、遠くから見て立ち去る。


満月が来る前に。


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