押し寄せる不安
その夜、蘭珠の元を訪れた景炎は少々疲れているようだった。
「景炎様、どうなさいました?」
「あー……、大丈夫、問題はない。ちょっとここに座れ」
とんとん、と彼が示すのは膝の上だ。
―――変なの。
今さら断るほどのことでもないから、そのまま膝の上に座る。とんと彼の胸に頭をもたせかけたら、身体に回された腕に力が込められた。
「いい香りがするな」
「……先ほどまで春華様のところにいたから」
春華は香を焚くのを好んでいるらしくて、彼女の宮にいくといつもいい香りがする。おそらく、彼女の宮で過ごしていた間に香りが移ったのだろう。
「義姉上のところか。何か言っていたか?」
「……年が明けたら、蔡国に嫁ぐって」
春華は言っていた。講話の条件として春華が嫁ぐことになると。
「――ああ、そうだ」
「……そう」
もう少し強く彼の胸に耳を押しつけて、鼓動を感じ取ろうとする。規則正しく脈打っていることに妙に安堵した。
――まだ、大丈夫。
蘭珠の中では彼への想いは確実なものへと育っていたけれど、彼の方はどうなんだろう。
何も言えないまま、時間だけが過ぎていく。蘭珠の髪を弄び、そこに口づけながら景炎は言った。
「蘭珠――これから、荒れるぞ」
「どういう意味ですか?」
「義姉上が蔡国に嫁ぐのを、よしとしない者も多い……おそらく、兄上もそうだ」
「……そうなんですか……でも、そうなのかもしれませんね。それと……春華様と皇太子の関係って私が思っていたよりずっと強かったみたいです」
今日、春華の宮で聞いてしまったことを告げると、景炎は驚いたようだった。
「姉上が――か。いつも、よくしてくれていたんだがな。俺の友人に嫁ぐと言ってくれたし――今となっては、それも何かの策略だったのかもしれないが」
景炎の話によれば、もともと彼からではなく、春華の方からあった話だという。それを聞かされると、蘭珠にも何か裏があるのではないかと思えてきた。
耳にかかる彼の息がくすぐったい。身を捩ったら、かぷりと噛まれた。
「……もうっ」
むくれたふりをしたら、髪をぐしゃぐしゃとかき回される。せっかく綺麗に結ってもらっているのに、頭をかき回されるのはこまる。
「……そう言えば」
一応、景炎にも話しておいた方がいいだろうか。蘭珠は、反対側の耳に唇を寄せかけていた景炎の顔を押しのけた。
「……春華様のところで、侍女の顔ぶれがだいぶ入れ替わっているのをご存じでした?」
「お前、よくそんなところに気づいたな。侍女の顔なんか誰も見てないだろう」
「半数以上……入れ替わっているみたいで。何かあって、侍女の大半が解雇されたり、身分を剥奪されたりしているのなら噂ぐらいは入ってくると思うんです」
蘭珠の言葉に、景炎は眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
――嫌な予感がするっていうだけじゃないんだけど。
なぜ、それを景炎に話そうと思ったのか、蘭珠自身にも実はよくわかっていない。
ただ、おかしいと思ったから素直に口にしただけ。
――もし、春華公主が物語を同じ道をたどっているのだとしたら。
彼女の動向が、景炎の未来に大きく関わってくることになる。
「お前は、本当によく見てるんだな――何を見ても、そうなのか?」
「景炎様だってよくご存じでしょ? 後宮で生き残りたかったら、周囲で何がおこっているのかをよく見ておかなければだめだって」
「後継者争いのことか」
一応、龍炎が皇太子ということになってはいるけれど、家臣達の中には、第二皇子を飛び越えて景炎を皇太子にという声があるのも知っている。
――それが、いずれ景炎様を国境に追いやることになるわけだけど……。
膝の上に乗せた蘭珠の肩に顎を埋めて、景炎はぼそぼそと続ける。
「言っておくが、俺は皇太子争いに乗り出すつもりはないぞ」
「知ってます、そんなことくらい――でも、周囲の人達がどういう目で見ているかはまた別問題でしょう」
景炎の中で、どういう判断を下しているのかは蘭珠にはわからない。ただ――このままではいけないような気がして。
「心配性だな、蘭珠は」
「そうかもしれませんね。でも、何も考えないで、危ないところに自分から飛び込んで行ってしまうよりずっといいでしょう?」
――未来を、変えられるのなら……この人が、あんな死に方をするところは見たくない。
『六英雄戦史』本編では、主人公林雄英の兄貴分となった景炎は、雄英を一人前の英雄として鍛えた後、雄英をかばって死亡する。
彼の死は、雄英の大きな成長の一端となり、その死は物語中最高の山場、最高のシーンの一つとして語られているけれど、今、この世界に生きているのなら未来をねじ曲げてでも彼の死を避けたいと願う。
それが間違っているとは思わない。だって、蘭珠はこの世界で行きているのだから。
「――私達はいつだって危険と隣り合わせの中で生きている。生き残りたかったら――周囲を見ることを忘れてはいけないんです。そうでしょう?」
そう言ったら、景炎はものすごく微妙な表情になった。
――どうか、このまま。できるだけ長い間私と添い遂げて。
物語の通りに歴史が流れていくのなら。今から十年以内に景炎は死ぬ。
――私は『蘭珠』ではないから。
彼の遺骨を抱いて、ひっそりと物語から姿を消した公主。彼女と今の蘭珠は違うから。彼の遺骨と共に残る生涯を過ごすなんて考えたくもない。
「私は心配しすぎ? あなたのことを心配したらいけない?」
不意に感情が膨れあがって、景炎の身体にしがみつく。
そこにいるのは、たしかに生きている人間なのに、不安ばかりが大きくなる。
自分の感情を制御することができない。上手く説明することができない。ただ、彼の衣にすがりつく指先に力がこもる。
「……悪かった。そんなつもりで言ったわけじゃない。俺が悪かった」
なだめてくれる声は優しくて、背中に回された腕に力がこもる。
「心配されるのが嫌というわけじゃない――だましだまされ――信頼できる人間はごく少数というのがこの世界だ。だが、お前にそこまでしてほしくないというのは俺の我儘かもしれないな」
「景炎様、ごめんなさい。私……少し、考えすぎたのかもしれない」
自分には荷が重いのかもしれない。
顔をそむけたままの蘭珠の顎を掴んで、彼は強引に自分の方へと顔を戻す。
「助かっているのは事実だ。これからも、何か気がついたことがあったら、教えてほしい」
「……はい」
この世界そのものが偽物なんじゃないか。
その不安はつねに蘭珠につきまとっている。自分の身体が、日々変化していくのも、花の香りも、夜の冷たい空気も、身近にいる景炎の体温も全て感じ取っているというのに。
「景炎様、お願い……」
自分がここにいていいのだと。どうか、ここにつなぎ止めておいてほしい。
蘭珠の意図をくみ取ってくれたようで、景炎の手が襦裙の合わせ目から中に滑り込んでくる。
――まだ、これから先、大きな何かが起こる。
その予感は蘭珠の中にあって、意識をそちらに持っていかれがちになる。
「こら、俺が抱いてるんだから、他のことに気をそらすな」
そのまま床の上へと組み敷かれて、彼の体温を直接感じてようやく安堵した。




