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春華への疑念

 何も知らなかったふりをして、傷の癒えた景炎に連れられて蘭珠は成都へと戻った。


 ――もう少し、あの場所にいたかったな。


 側にいるのは鈴麗をはじめとした気心の知れた者達だけ。景炎の身を守る兵士達も選び抜かれた者ばかり。


 後宮内の権力争いのことも完全に忘れてしまって、彼と二人で過ごす時間はとても貴重なものだった。


 今、蘭珠の手元には、『三海』の女将から献上された菓子の箱がある。二重の底を開いてみれば、中には、蘭珠への手紙が隠されていた。


 ――年の瀬には、行き交う人が多くなるとは聞いているけれど、蔡国からの船が増える理由なんてあるかしら。


 蘭珠がこの国で年を越すのは今回が初めてだ。だから、街の様子はよくわからないけれど――何かが違っているような気がしてならない。


 ――そう言えば、しばらくの間春華様とお話をしていなかったっけ。もし、婚儀の話が本当なら……蔡国に行ってしまう前に会っておいた方がいいかもしれない。


 蘭珠が戦地へ行っていたり、戻ってきてからは鈴麗の養生に気をとられていたりで、しばらくの間春華と会話をする機会はなかった。


 ――いなければいないで、出直せばいいし。


 事前に使者も出さず、ふらりと訪れたのは、あまり春華に気を使わせたくなかったから。


 春華の住まいに行って、案内を請うと慌てた様子で奥から侍女が出てきた。


「まあ、蘭珠様――こちらへ、どうぞ」


 通されたのは、いつも通される部屋の隣の部屋だ。先客があるのだろう。


「もし、ご都合悪いようなら出直してくるわよ。ちょっとご機嫌伺いに来ただけだから」


「いえ、しばらくお待ちくださいませ――そろそろお帰りになるはずですので」


 うろたえていた、侍女は引き下がっていく。侍女がそんなにうろたえる理由がわからなくて、蘭珠は首を傾げた。


 ――あんなにうろたえる理由なんて……。


「翠楽を実家に戻すはめになったぞ!」


「あら、お兄様――それこそ、望んでいたことではなかったの? もともとあまりお好きじゃなかったのでしょ」


 隣の部屋から響いてきた皇太子の怒声に蘭珠はその場で飛び上がった。声を殺す気ないのか、春華の言葉まで耳に入ってくる。


 ――ぬ、盗み聞きしたいわけじゃないんだけど……。


 とはいえ、これは、皇太子が何を考えているのかを知る絶好の機会だ。だが、春華の次の言葉を聞いたとたん、一気に身体が冷たくなった。


「国境で、公主を殺せば景炎の落ち度になるから、うまく行けば失脚させることもできると、そう言ったでしょう。だから、わざわざ景炎を迎えに行くようにたきつけたのに、女一人殺せないなんて。ならず者を雇うのだって大変なんだから」


「ふざけるな、あの娘は病弱だと聞いていたぞ」


 ――そうよ、景炎様は言っていた。


 最初に後宮内を調べていた時、春華の宮に礼をしに行った景炎と会った。そのまま後宮内を案内してくれたけれど、あの時、「迎えに行くように言ったのは春華だから」と、たしかにそう言っていた。今の今まで忘れていたけれど。


「翠楽の房に呼ばせた時も失敗するし、蔡国との国境でも失敗――本当に、景炎を追いやりたいと思っているのよね?」


 ――春華公主は、景炎様の敵……でも、どうして……?


 漏れ聞こえてくる言葉だけでは何がどうなっているのか、把握できない。


 でも、皇太子と春華は皇后から生まれた同母の兄妹だ。比較的、景炎に好意的に見せていたのも、兄のために景炎を失脚させようとしていたというのなら、ありえなくはない話だ。


「馬鹿ね。お兄様が、ことごとく失敗しただけじゃないの。景炎が邪魔だと言うから……もう、諦めたら? これ以上、景炎に関わっても、お父様の期待を裏切るだけ。皇太子を廃するなんて前代未聞のことになっても困るわ」


「何か、策はないのか?」


「……策ですって?」


 その時、隣の部屋でなにやら侍女の声がする。おそらく蘭珠の訪れを告げているのだろう。


 蘭珠は周囲を見回し、机の上に置かれていた書物を取り上げる。


「……蔡国の旅行書ね」


 つぶやくなり、背を丸めるようにしてそれを読み始めた。


 ――そう言えば、皇太子妃のとこで出されたお茶は、蔡国との国境近辺で採れるものだと言っていたわね……。


 蘭珠が思っていたより、皇太子妃と春華の関わりは深かったと言うことなのかもしれない。


 耳だけは、隣の部屋に向けてすましているけれど、蘭珠がいることを知られたせいか、それ以上はひそひそ声になってしまって、聞くことができなかった。


 ――策はないのかって皇太子は春華公主にたずねていた……ということは。


 春華もまた景炎を追いやろうとする皇太子に与しているのだろうか。だが、彼女はどちらかと言うと蘭珠に好意的だったように思っていたけれど。


 ――春華公主はさほど悪い人間ではないというのが思い込みだったのかしら。


 耳をすましながらも、目は旅行書を追っている。もし、春華公主が戻ってきた時に、この本の内容について聞かれても困らないように。


 どうやら、この地域は春華の領地となっているようだ。


「……この土地は、昔から争われていたのね」


「お待たせしてしまってごめんなさい。ちょうど兄が来ていたものだから」


 ふわりと入ってきた春華からは、今日もいい香りがした。蘭珠は読んでいた旅行書を閉じて、春華の方に向き直る。


「お久しぶりです、春華様。いらしていたのは皇太子殿下だったのですね」


「気がつかなかった?」


「この本に夢中だったので、気にしていなかったんです」


 蘭珠は手にしていた本を閉じて元の位置に戻す。


「そうだったのね。これは私の領地の見所を書いた本よ。お父様に写本を献上しようと思って、書庫から出してきたの。装丁もうんと豪華にして――年越しの贈り物ね」


「素敵ですね。春華様の領地が、蔡国と境を接しているなんて、全然知りませんでした」


「私も行ったことがないのよ。行く必要もないし、しょっちゅう蔡国とやり合ってるから危ないんだもの。いい場所だと、派遣した役人達は言うけれど、ここを離れるわけにはいかないものね」


「そうですね、私も景炎様から出かけていいのは街中だけだって言われています」


 手にしていた本を、蘭珠は元の場所へと返す。それから、春華の用意してくれた場所へと移動した。


「今日は何かあったの?」


「いえ、しばらく会ってないなと思って……本当にふらりと来てしまいました」


「そう……そうね、久しぶりね。そう言えば、景炎の怪我はどう? 一度、見舞いにいったけれど、本人はいなかったのよね」


「完全に元気ですよ。温泉地で養生したおかげで、傷の治りも早かったそうです」


 なんてことのない会話が交わされる。


 ――この会話の中から、何か見つけることができる?


 今の会話を聞いていなかったら、春華については何一つ疑いを持たなかっただろう。


 作中では悪役であることは知っていたけれど、ここは蘭珠の知る世界ではないから――と油断していた一面もある。


「それならよかったわ。ええと……私、来年はここにはいないかもしれないから」


「そう……なんですか……?」


 また、聞いたことのない話が出てきて、蘭珠は目を瞬かせる。


「蔡国から、嫁いでこないかという話をもらって。要は、講和条約の証しね。まだ、喪も開けていないけれど、婚約だけなら問題ないだろうってお父様もおっしゃるし」


「そうですか……国を越えて嫁ぐのは勇気がいりますね」


 自分が嫁いできた時のことを思い出して蘭珠は言った。


 蘭珠の場合は、景炎とのことで違った意味の緊張感もあったけれど、一人、敵国に嫁ぐのだから恐ろしいと思っても当然だと思う。


「そうね、でも……うまくいくような気がするの。私なら、大丈夫」


 きっと根拠のない自信というわけでもないのだろう。蘭珠も安心して、彼女に任せることにした。


「明後日、またいらしてくれる? 一緒に刺繍をしましょうよ。嫁ぐ時に、刺繍をした履き物を持っていきたいの。手巾もたくさん持っていきたいから、今から準備をしておかないと。それと婚約者への贈り物に刺繍をした帯もだし、花嫁衣装もこちらで準備していきたいの」


 蔡国の花嫁衣装ではなく、こちらの花嫁衣装を持っていくと言うことは、蔡国の風習には染まらないという意思表示なのかもしれない。


 蘭珠の時にも、春華が裁縫を手伝ってくれたから、こちらも気持ちよく手を貸すことにする。


「明後日ですね、わかりました」


 それに、手を貸せば必然的にこちらの宮に来ることになるから、春華の様子を探ることにも繋がるだろう。


 蔡国へ嫁ぐというのなら、蘭珠の知っている歴史とは多少違う形でも、同じように歴史が流れる部分があるのかもしれない。


 ――となれば、春華公主が悪女化する未来だって完全に消せたわけではないのだろうし……。


 別れを告げて立ち去りながら、ふと案内してくれた侍女の顔に見覚えがないのに気づく。


 後宮内にいる人間は極力顔と名前を一致させるように努力している。


 もちろん、厨房や庭師仕事や洗濯など下働きの者達の名前までは知る機会もないけれど、それでも知らない顔がいれば気になるものだ。


 身近に仕える侍女達の同行は、各宮に入れた百花の娘達からも聞いてる。


 ――春華公主のところで最近人員の移動があったとは聞いていないけれど……。


 ふと目をやれば、春華のところに新しいお茶を運んでいく侍女の顔にも見覚えがない。


 とはいえ、誰かやめれば新しい人材が入るのも当然のことで、あえて追及するほどのことでもないだろうとその場は立ち去った。

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