皇太子妃の企み
翠楽の行動には、あきれてしまうことも多かった。まず、毎朝のように朝食後には手紙を書き始める。
午前中いっぱい、その手紙を書くのに費やしたかと思ったら、伝令の兵士が前線に向かう時にその手紙も一緒に持っていかせる。
――こちらの様子なんて、さほど代わり映えしないのに。
「……自分がどこにいるのか、理解なさってないんじゃないですかね」
「一緒に行ってあげてくれる? 私は、ここで待っているから」
鈴麗に翠楽の護衛を任せて、蘭珠は窓から外を見ていた。たぶん、これでもましになった方だろう。
最初は、その辺りの少年を雇って前線に一日三回手紙を送っていた。あまりにも頻度が多いと、皇太子から叱られたそうだ。
蘭珠は、と言えば、伝令の兵士に伝言を頼むことはあっても蘭珠から景炎に手紙を書いたことはなかった。
蘭珠達の生活の様子は、伝令の兵士から景炎のもとに伝わっていることがわかっていたし、今のところ正しい情報が伝わっていることは確信できていたから、自分の手紙でわずらわせたくなかったのだ。
翠楽がうんうんいいながら手紙を書いている間、蘭珠と鈴麗が何をしているのかというと、借りている家を掃除し、朝餉の皿を洗い、やるべきことを終えてからは家の前で剣の稽古だ。
時々、興味深そうにのぞいてきた兵士達と打ち合ってみることもある。
勝ったり負けたりというところで、やはりきちんと訓練されている景炎の兵士達にはかなわない。
――皇太子妃の護衛として、この程度で役に立てるのかしら。
龍炎と景炎が配置してくれた兵士達は、皆強いのだと思う。だから、何かあっても蘭珠や鈴麗が剣を取らなければならない事態が起こるとは限らないけれど……。
そんな風にして十日ばかりが過ぎた頃、一度景炎と龍炎が戻ってくるという話があった。前線が膠着状態で、一度こちらの様子を見に来るのだという。
「――景炎様っ!」
そして、彼らが戻ってきた時、蘭珠は真っ先に景炎に飛びついた。
――無事で、よかった。
その思いで胸がいっぱいだ。景炎の体温を感じ、鼓動を感じ、彼が無事でいてくれたことに安堵する。
「なんだ、いきなり飛びついてくるから尻餅をつくところだったぞ」
「私はそんなに重くありません!」
首にしがみついたら、彼は軽々と蘭珠を抱き上げた。人前もはばからず、頬に口づけられて、蘭珠の頬に血がのぼる。
「な、何を――」
「先に飛びついてきたのはお前だろうが。反対側にもしてやろうか」
自分でもどうかしてると思うけれど、景炎の唇が頬をかすめる感触に、なんだか幸せを覚えてしまう。
はて、とそこでようやく翠楽のことに思いいたって視線を巡らせれば、こちらをじっと見つめていた。
――失敗、した……。
龍炎と翠楽の仲が良好でないことはわかっていたのに、自分達の仲の良さを見せつけるような行動をとってしまった。
こちらをじっと見ていた翠楽がくるりと向きを変える。そして、側にいた龍炎に何か話しかけていた。
とはいえ、二人の距離が微妙に空いているのが気になると言えば気になる。夫婦としては、あまりにも空きすぎていて、何かあったのではないかと思うほどだ。
――私が考えてもしかたがないんだけど。
いたたまれなくなって、視線を逸らそうとしたらこちらを見る彼女の目が、鋭さを増す。
蘭珠は慌てて景炎の腕から飛び降りた。
「どうした?」
「……なんでもない、です」
そうは言ったけれど、蘭珠がどちらを見ていたのかなんて景炎には完全にお見通しだ。彼は蘭珠を引き寄せてささやいた。
「あれは俺もお前でもどうにもしてやれない。あまり余計な気を回すな」
「……そうですね」
人の心を自由にあやつることができるのなら、こんな風に心が行き違うこともないんだろう。
一晩宿泊しただけで、翌朝には二人とも前線に戻っていった。本当に、こちらには様子をうかがいに来ただけのようだ。
あとは、こちらに残していた後詰めの兵士達と直接打ち合わせをしたいことがあったらしい。
副将の景炎はともかく、総大将であるはずの龍炎まで戻ってきてしまったのはどうかと思うけれど、蘭珠がそこまで追及することはできなかった。
朝出立していく彼らを見送った後は、いつも通りの生活に戻る。掃除、洗濯、書物を読み、剣の稽古。翠楽は一日中部屋から出てこなかった。
夕方になって剣を片付けていたら、ふらりと翠楽が現われた。立ち話もなんだから、と翠楽の部屋に招かれる。鈴麗は、夕食の準備にかかっていた。
「……本当に蘭珠様のところは仲がよろしいのですね」
「景炎様が……気を使ってくださるから。子供の頃から、変わらないです」
「気が回るのは、母の身分が低いからね。下級貴族の娘だから」
翠楽の言葉にはとげがある。やはり、昨日のことが気に入らなかったんだろう。
――景炎様がいないと、寂しいな。
たった一晩触れ合っただけなのに、景炎がいないとこんなにも寂しい。それを翠楽の前では見せたくなかった。
子供の頃、縁側から転がり落ちて泣いた蘭珠に「女が泣いたら玉をやればいい」と土産を持ってきてくれたこと、剣の稽古をつけてくれたこと、たまに街に連れて行ってくれること。
あまりのろけ話をしてもしかたないから、問われたことだけぽつぽつと返す。
「あなた達を見ていると、羨ましいわ。私も――そうなれたらいいのに」
それは、翠楽の心からの願いなんだろう。だけど、その声音に蘭珠は奇妙なものを覚える。
「変ね。幼い頃からずっと一緒だったのに、あの方は私を見てくださらないの」
「……人の気持ちを動かすのは、とても難しいことです」
何を言っても、翠楽にはきっと響かないのもわかっている。彼女の立場からしたら、蘭珠の立場は信じられないほど羨ましいものであろうから。
「……でも、あなた達の時間もそう、長くは続かないかもしれないわね」
そういう声音に、嫌な予感が膨れあがった。




