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迫りくる戦の足音

 いよいよ蔡国との戦が近づいているらしい。なんとなく景炎が慌ただしい様子なのを蘭珠は察知していた。


「お忙しいのですか?」

「まあな――戦に行くのはいいんだが、蘭珠と離れるのが嫌だ」


 侍女達も下げてしまって、部屋の中にいるのは二人きり。景炎は蘭珠を腕の中に抱え込んで、髪を指先に巻き付けて遊んだり、頬に唇を寄せてきたりといちゃいちゃするのに忙しい。


 総大将として蔡国との戦に赴くことになったと、景炎自身の口から聞かされたのはつい先ほどのことで、まだ受け入れることができてはいない。


「私も、行ってはいけませんか? 身の回りのお世話くらいなら……それに、天幕が襲われるような事態になっても、逃げるくらいならできると思うし」


「馬鹿を言うな。嫁を連れて戦地に赴く将軍がどこにいる」

「……それはそうですけど」


 むっとしたのが景炎にも伝わったようだ。彼は蘭珠の頭をぐしゃぐしゃとかき回す。景炎を押しのけるようにして、彼の腕から逃げ出した。


「むくれるな」


「髪をぐしゃぐしゃにするからです! せっかく鈴麗が結ってくれたのに」


「悪かった、直してやるから機嫌を直せ」


「直ってないです! よけいぐしゃぐしゃになって――わあ!」


 おかしい。間に卓を挟む位置まで待避していたはずなのに、いつの間にか彼の腕の中に逆戻りだ。


 髪を留めていた髪飾りが外され、髪がはらりと肩に零れる。こうなったら、蘭珠の手で直せるはずもなくて、鈴麗を呼んで結い直してもらうしかない。


「……鈴麗以外は信用できないか」


「そ――そういうわけじゃ。鈴麗は、あ……姉みたいな存在でもあって」


「姉のような?」


 こうして、彼の腕の中にいると安堵できるのはなんでだろう。彼の腕の中で向きを変えて、心臓のあたりに額を押しつける。


「高大夫は、戦争で身寄りを亡くした子供達を支援していました。その中で、特に有能な娘を何人か、私の侍女につけてくれたんです。皆、高大夫への恩返しも兼ねて、私によく仕えてくれました。鈴麗も……その一人、です」


「そうだったのか」


「だから、つい鈴麗にいろいろ頼んでしまうのかもしれません。何を買いにやっても、私の好みにぴたりと合った品を買ってきてくれるので」


 長い間、鈴麗とは一緒に暮らしてきたから、今では目線だけで意思疎通できるくらいだ。


 命がけで蘭珠に仕えてくれるのだから、精一杯の誠意を返したいとも願う。


「もし、鈴麗ばかり贔屓すると景炎様がつけてくれた侍女の間から苦情が出ているのなら、ごめんなさい。もう少し、考えて行動しますね」


「そういうわけじゃなかったんだ。鈴麗なら、護衛にもいいだろう。安心して留守を任せることができる。七日後には出発することになりそうだ」


「そうですか……寂しい、ですね」


 本音がぽろりと口から漏れた。


 ――ううん、寂しいだけじゃない。嫌な予感がする。


 今回景炎が赴くのは、蘭珠の知らない戦争だ。『戦史』本編で語られていたことであればある程度予測がつくけれど、今回の戦については何も知らない。


「寂しい、か――何か土産を買ってくるから、おとなしくしていてくれないか」


「お土産だなんて……子供じゃありません。だいたい、景炎様は遊びに行くわけでは……あっ!」


 こうなることを予想しておくべきだった。


 腕の中に抱え込まれているのだから、最初から逃げ道なんてあるはずがない。両肩を床に押しつけられる。


 そのまま唇を重ねられたら、必要以上の言葉なんていらない。


「……景炎様」


 景炎の腕の中、蘭珠が小さな声で名前を呼んだら彼が小さく笑う。彼と一緒に過ごす時間が、少しでも長く続けばいいと願わずにはいられなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 七日後には出立する。そう聞かされた翌日、景炎と夕食をとっているところに、とんでもない知らせがもたらされた。


 皇帝からの使いの者が持ってきた命令書を、景炎は落ち着き払って受け止めた。


「なんで、皇太子殿下が総大将として戦に行くんですか? 総大将は景炎様でしょうに」


 今回の戦、皇太子が総大将として景炎と共に赴くことが決められた。皇帝の決めたことだから、誰も口を挟むことができない。


「今回の戦で手柄を立てて、自分の権威を取り戻したいということだそうですよ。まったく、とんでもない男ですね!」


 完全に景炎と蘭珠の味方である鈴麗は、皇太子に対しても容赦ない。


「驚くほどのことではない。俺ばかり戦場に行くのでは不公平だと、先日話していたから」

「……でも」


 不満顔になった蘭珠の手に、なだめるように景炎の手が重ねられる。。


「皇太子妃の父親である田氏のとりなしがなかったら、兄上の禁足処分ももう少し長いものになっただろうという話ではあるが、田氏にいいところを見せておきたいということだろう」


「それにしたって……」


「いいんだ。兄上がそれを希望だというのならな」


 鈴麗には言えないけれど、皇太子龍炎は、皇帝として即位するのは確定事項だ。


 ただ、彼がそれを知っているはずもないし、「皇帝に即位できるのは確実なので安心していいですよ」と蘭珠の方から教えてやるわけにもいかない。


 今回、景炎と共に出陣するのは、彼の手柄を横取りしてやろうという心づもりなんだろう。実際、総大将が皇太子だというのなら、景炎の手柄も彼のものとされる可能性が高い。


「今夜は遅くなる。お前のところで休むが、先に寝ていていい」

「行ってらっしゃいませ」


 食事を終えた景炎が出て行くのを、不安な顔で見送る。それからすぐに鈴麗を呼んで命じた。


「たしか戦には、食べ物とか日用品とかを商う行商人がついていくのよね? もし、高大夫に頼めるなら、水鏡省の構成員にも協力を依頼して、行商人として誰か同行させて」


 戦で危険にさらされるのは景炎の役割だからしかたがないとしても、味方の軍隊に背中から刺されるようでは困る。


 龍炎が同行するというのなら、何があっても驚くようなことではない。


 ――私が自分で行くことができればいいのに……いっそ、こっそり同行する? たとえば兵士に紛れ込むとか……物売りに紛れるとか……。


 男装して兵士として入るのはだいぶ無理があるだろう。


 物売りならば化けられなくもないだろうけれど、長期にわたる後宮の不在をどう説明するかがまた問題になってくる。


 ――やっぱり、無理よね。でも、一緒に行きたい。


 自分の目の届かないところで何かあったらと思うと怖い。一緒に戦場に出ることはできなくても、少しでも彼の側にいれば妖しい気配を見逃さないですむかもしれない。


 蘭珠の心配はますます膨れあがっていく。


 遅くに寝所に戻ってきた景炎は、蘭珠が起きているのに気がついた驚いたようだった。


「どうした?」

「……なんとなく」


 蘭珠の方から景炎の膝によじ登る。膝に座って、彼の胸に頭をもたせかけたら、心臓が規則立たし苦動く音が聞こえてくる。


 ――大丈夫、まだ死んだりしない。


「なるべく早く、戦を片付けて帰ってくる」

「……はい、お待ちしています」


 彼と共に行くことができないのなら、少しでも長くこうしている時間が欲しかった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] >不満顔になった蘭珠の手に、なだめるように景炎の手が重ねられる。。 句点はひとつでいいのでは
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