重いというか重すぎる女
皇太子妃の翠楽から蘭珠を訪れたいという申し出があった。というか、直接本人が来てしまった。
来てしまったものを追い返すわけにもいかないので、しかたなく客間に通す。
――春華様からもお願いされているし、会わないわけにもいかないわよね。
「鈴麗。私、大丈夫よね?」
「とても、お綺麗です」
鏡をのぞき込み、化粧を直してから立ち上がる。翠楽と二人で顔を合わせるのはあの日以来、だった。
「お待たせいたしました。お越しに気がつかず、申し訳ありません」
誰も呼んでいないし、本当は会う気もなかった、と言外に滲ませながら蘭珠は翠楽の向かい側に腰を下ろした。
「ごめんなさい……ここに来るのはだいぶ迷ったけれど、お願いできるのはあなたしかいなくて……春華様にお願いしたけれど……自分できちんとお願いしなさいって……」
座るなり、翠楽はめそめそとし始めた。いきなり目の前で泣き出されるとは思ってもいなかったから、蘭珠も焦ってしまう。
「鈴麗、鈴麗! 手巾をちょうだい」
慌てて綺麗な刺繍を施した手巾を持ってこさせ、翠楽の前に差し出した。
「どうぞ……これを使ってください」
「……ありがとう」
目元を押さえる翠楽を、蘭珠はじっと見ていた。
――ほんっとうに……幸薄そう――!
なんて、失礼な感想を抱いているのを、翠楽は気づいてもいないだろう。
皇太子に愛されていないと聞いているから、余計に幸薄そうに見えるんだろう。
「……ごめんなさい。本当に……あなたにお願いできる立場ではないのはわかっているの。あんなことをしてしまったんですもの。でも……」
そこから先はえんえんと謝罪の言葉が続いて、なかなか用件に入ろうとはしない。焦れた蘭珠が、先をうながしたところで翠楽はようやく本題に入った。
「蔡国との国境に、皇太子殿下が出陣するのはご存じ?」
蘭珠はうなずいた。こういう時、二人も皇子が出陣していくのはあまり例がないような気がするからやっぱり裏があるんだろう。
―――でも、この機会に景炎様を……という計画があったとしても驚かない。
「……それで、翠楽様のご用というのは……?」
「私、殿下にお供をするつもりなのです」
「……はい?」
皇太子妃相手であるが、思わず妙な声が出た。
だって、戦地への同行は先日蘭珠が景炎に申し出たことだ。前例がないとばっさり断られてしまったことを、翠楽がやろうとしているわけで、妙な声が出てしまったとしても、咎められないと思う。
「ここにいれば、多数の女性に囲まれているけれど……戦地に行けば、私一人。殿下が私を見てくれる機会も増えるかもしれないでしょう」
「そ……それは、どうかと……」
――重い。皇太子妃の愛情って……重すぎる……!
そうやって追いかけ回したら、皇太子の気質からして、さらに逃げたくなるだけのような気がしてならない。けれど、翠楽はいたって真面目というよりは、追い詰められている感じだった。
「――どうしても、殿下のお子を授かる必要があるのです」
翠楽の必死の形相に、蘭珠はぞくりとするものを覚えた。
――無理無理無理無理。私だって、重いと思うんだから……皇太子はもっと重く感じるんじゃ……。
追えば追うほど相手は逃げるだけのような気がする。
「私は……自分の身を守ることもできません。でも、あなたが一緒に来てくれるというのなら、殿下のお許しを得ることもできると思うのです」
「……どうしてです?」
――春華様がおっしゃっていたのは、ひょっとして、このこと……?
先日訪問してきた春華は、蘭珠に向かって、「皇太子妃の頼みを聞いてやってくれ」と頭を下げていった。
その時、ひょっとしたら翠楽から春華の方に相談があったのかもしれない。
二人は幼なじみだし、春華は翠楽にはさほど悪い印象もなかったようではあるし。
――ここで『はい』と言わなかったら、すごく悪いことをしているような気分になってくる……。
「蘭珠様は剣を使うことができるのでしょう。国境を越えたところで、盗賊達を追い払ったと聞きました。だから、どうか一緒に来てほしいのです」
「いえ……あれは、景炎様が助けに来てくださったからで」
「でも、剣を使うことはできるのでしょう?」
「それは否定しませんが……」
どの程度の腕前かまではあまり知られていないと思うが、国境での騒ぎについては、後宮中の噂になっているはずだ。
――皇太子妃が知っていても、驚くほどのことじゃないんだけど。
「……私の一存では決められません。景炎様がお帰りになったら、相談してみます――今は、こうお返事をすることしかできませんが」
やっかいなことに首を突っ込んでしまったような自覚もある。
けれど、春華から頼まれたこともあったし、必死な翠楽の様子を見ていたら、簡単に突き放すこともできなかった。
その夜、蘭珠の部屋を訪れた景炎に、蘭珠は自分が思っていることをあますことなく伝えた。
「皇太子妃の動向について、景炎様は、何かお聞きではありませんか?」
「兄上が、許可を出したらしい――おそらく、田大臣からも圧力がかかっているんだろう。兄上も、大臣の頼みを無碍に断るわけにもいかないようだから」
「……そう、ですか……」
今、龍炎が皇太子の地位にあるのは正妻の息子であると言うだけではなく、田大臣の後ろ盾があるというのも大きいらしい。
それでも、翠楽への寵愛が今ひとつ薄いのはどうしようもないのだろうけれど。
「たぶん、今回のことも皇太子妃から大臣の方に泣きついたのだろう。兄上は、最近は新しく入った侍女がお気に入りらしいから」
「――皇太子殿下のお妃様というのは大変なものなのですね」
正妻の地位を得ていたとしても、肝心の皇太子があれでは気の休まる暇がないだろう。
「それで、景炎様。私……同行してもよろしいでしょうか? 皇太子妃の願いを聞くようにと、春華様にも頼まれているのです」
――本当は、私にとっても都合がいい話である……けれど。それは、景炎様には言う必要がないし。
百花の娘や、高大夫の手下達を軍に同行させる手はずは今、鈴麗と『三海』の女将が調えてくれているはずだ。蘭珠が同行できなかったとしても、景炎の身にはきちんと注意を払ってくれる者がいる。
それでも不安を消し去ることはできなくて、景炎と共に行きたいという思いはますます強くなる一方だった。
「……兄上が許可を出しているのなら、俺からダメとは言えないだろう。だが、気をつけろよ、蘭珠」
何に気をつけなければいけないのかわからなくて、蘭珠はきょとんとした表情になった。
「兄上は、まだお前を諦めてはいないみたいだから。戦場では、皇太子妃の身の安全以上に自分の身の回りのことに気を配れ」
「……はい」
なんて環境に嫁いでしまったのだろうと、ちょっと怖くもある。けれど、それ以上のことは何も言わず、蘭珠はそっと景炎に寄り添ったのだった。




