師匠との再会、そして繋がる想い
蘭珠が懐かしい人の訪問を受けたのは、婚儀まであと三日と迫った日のことだった。
「私に……お客様?」
「国許からお使者でございます」
「ああ……婚儀までもうすぐだものね。使者が来ても驚くほどのことではないわ」
国許からの使者とは誰なのだろう。大臣達とは一通り顔見知りであるから、誰が来てくれても嬉しいと思う。
けれど、客人を迎えための建物に向かった蘭珠は、そこで思いがけない人に出会って思わず声を上げる。
「――先生!」
そこにいたのは、蘭珠の師匠である高大夫だった。彼は間諜部隊の長である以前に、政府の高官でもあるから、使者としてここに来ても驚くことでもない。
「姫様、お元気でございましたか」
「ええ――とても、元気! 先生もお元気そう」
「何、姫様がいなくなってから気が抜けてしまいましてな……部下達の訓練にも身が入らない始末でございますよ」
懐かしい――高大夫に師事した日々が、頭の中によみがえる。蘭珠は、目を潤ませた。
高大夫の指導は、今になって思えば、かなり厳しかったと思う。そんな日々を思い出させるかのように、大夫は蘭珠に向かって鋭い目を向けた。
「姫様、薬を盛られたと聞きましたぞ」
「……え?」
高大夫とは時々手紙のやりとりをしていたけれど、それはあくまでも師匠と弟子。勉学の師匠相手に薬を盛られたなんて告げられるはずもないから、翠楽に一服盛られたことは蘭珠は告げなかった。
どこから情報が漏れたのだろうと考えてみるけれど、情報が漏れるところなんて、一つしかない。
「水鏡省の間者から聞いたのですね――」
師匠の前だというのにかまわず蘭珠は卓につっぷした。そんな蘭珠に向かって、高大夫は小さく笑って見せる。
「姫様のことについては、何でも報告しろと命じておりましたので。油断なさいましたな」
「それは、わかっているわ……反省してます」
景炎のことばかりに頭が言っていて、自分が薬を盛られるなんて全然考えていなかった。ましてや、龍炎があんな企みを持っているなんて。
「姫様も鈴麗も、男女のことにうといですからな。そういう失敗もあるでしょう」
「……そ、そんなこと……ないです、たぶん……きっと」
蘭珠は慌てて誤魔化そうとした。自分で言っていても、だいぶ説得力が足りていない。
「ご結婚、おめでとうございます。今回使者に立ったのは、百花がうまく稼働しているかどうかも確認したかったのですよ。問題がないようでようございました」
「……先生」
師匠が来てくれたことに、思わずほっとする。蘭珠にとって、高大夫と過ごした日々は濃密なものだった。
――劉景炎を死なせてならない。
ただ、その目的を果たすためだけに――ここまで来たのだから。
「先生のおかげ、です。無事にこうして婚儀を迎えることができそうだし――」
もし、大夫の協力がなかったら、今頃どんなことになっていただろう。考えてみるけれど、蘭珠自身にも答えは見つからなかった。
一度席を外した鈴麗が戻ってきて、景炎の訪れを告げた。
「景炎殿下がお越しです。高大夫に挨拶をなさりたいと」
本来は、蘭珠の国からの使者にわざわざ景炎が挨拶をする必要なんてないけれど、わざわざ来てくれたのを拒む理由もまたなかった。
「景炎様が? ええ、すぐにお通しして」
慌てて蘭珠は立ち上がり、景炎のための席を用意する。その用意が終わるのと同時に、景炎は大股に部屋に入ってきた。
「高大夫、遠いところをよぃ来てくださった」
「ご結婚、おめでとうございます。姫様がよき方に嫁ぐことになって私も安心でございます」
高大夫が、水鏡省の長であるということを、おそらく景炎も知っているだろう。公にはしていなくとも、その程度の情報ならどこにでも伝わるものだから。
「先生、あの……来てくださって、本当に嬉しいです」
懐かしい人に出会って、懐かしい声を聞くことができた。なんだかそれだけでふわふわしてくるから不思議なものだ。
蘭珠の言葉に、高大夫は目を細めた。
「大夫は、蘭珠に何を教えていたんだ? 先生、と呼んでいるようだが」
「基礎の勉学でございますよ。姫様は、勉強熱心でしたから――私も、教え甲斐がございました」
基礎の勉学も習ったが、それ以上に習ったのは間者を育て、使う術についてだ。
だが、それについては景炎の前で言うわけにもいかなかったので、おとなしく口を閉じておく。
「剣を学んだのも、高大夫からか? 剣の稽古を始めたら、めきめき丈夫になったと蘭珠が言っていたぞ」
「私は年ですし、剣は不得手でして。しかし、弟子の中には剣をよく使う者もおりましたので、その者に姫様の稽古をつけさせました。たしかに昔の姫様は、多少病弱なところもございましたな」
「そうか」
何か考えているかのように、景炎の目が細められた。どきりとして、蘭珠は彼の視線を追う。
――私、何かしでかしてしまったかしら。
反射的にそう考えてしまうのは、もうしかたのないことなのだろう。景炎には迷惑ばかりかけてしまっているような気がする。
口角をあげた彼は、真正面から問いかけた。
「この国に来た時、真っ先に逃げ道を確認していたが、それも大夫の教えか」
「――景炎様っ!」
蘭珠は思わず声を上げた。
たしかに、後宮内を探っていたところを景炎に見つかったことがある。あれは蘭珠の失態であるのは間違いのないところだ。
「……後宮には、様々な者がおります。知らないところで恨みを買っていることもあるでしょう。実際、姫様のお母上も襲撃を受けたことがございました」
「……え?」
母がそんな経験をしていたとは知らなかった。思わず、蘭珠の口からは間の抜けた声が上がる。
「その時、姫様のお母上は、侍女がかばいましてな。侍女は怪我を負いましたが、命に別状はなく。お母上は転んだ拍子に手をすりむいただけですみました。おかげで今の姫様がいらっしゃるというわけです」
「……聞いたこと、なかった」
「姫様がお生まれになる前の話ですから。それで、まず逃げ道だけは確認しておけとお教えておいたのでございますよ。姫様なれば、逃げる方向さえわかっていれば問題ないだろうと思いましたから」
――それにしたって、お母様のことは、こちらに来る前に教えてくれてもよかったと思うんだけど。
聞いたところで、今さら何ができるというわけでもないだろうけれど、できれば先に聞いておきたかった。蘭珠が不満を覚えているのを悟ったかのように高大夫は言葉を重ねる。
「不安がるといけないから、姫様にお話になるなと当時は命令されておりました」
「それなら、なぜ、今になって話すの?」
「……忘れておりました。お母上には内緒でお願いいたします」
しぃっと口元に手を当てるから、思わず蘭珠は笑ってしまった。その様子を見ていた景炎もまた口元を緩める。
「いや、いい教育をしてくれたと思うぞ。おかげで――助かったこともあった」
龍炎とのことを思い返して、蘭珠は首をすくめた。あの時、鈴麗が景炎を呼んできてくれなかったら、あの後、どんな目に遭わされていたことか。
「いえ。姫様に何ごともなければそれでよろしいのです」
それからしばらく歓談した後、高大夫は宿泊場所へと戻っていった。彼とは婚儀の前にもう一度会うことができるだろう。
「いい師匠を持ったな、蘭珠」
「そうでしょうか?」
「お前もまた、先生の教えを忠実に身につけたと言うことなんだろうが」
高大夫のことを誉められたら、なんとなく嬉しくなってしまう。景炎と、このまま一緒に過ごすことができたなら――それ以上のことは、望まない。
「……お見舞いに来てくださった時、髪飾りをくださいましたよね」
泣いている女には玉をやればいいと、叔父の言葉を真に受けて、珊瑚の髪飾りを贈ってくれた。
それは、子供らしい素直さと言えばそうだったけれど、あの時、きっと蘭珠の中で何かが動いたのだと思う。
当時はまだ記憶が混乱していて、その気持ちが自分のものなのあかそれとも前世から引きずった何かなのか、見いだすことはできていなかったけれど、きっとあれがきっかけだった。
あの時もらった髪飾りは、今でも大事に宝石箱の中にしまわれていて、嫁ぐ時、一緒にこの国まで持ってきた。
「……私、あなたが好きです」
景炎の顔を見ることはできなかったから、蘭珠は俯いたまま言った。
――これは、今の。『私』としての想い。
そう自覚したからこそ、告げずにはいられなかった。
「……馬鹿だな」
馬鹿、と言われて蘭珠の頬に血が上る。精一杯の想いを口にしたのに、そんな風にからかうなんてひどい。
抗議のために顔を上げたら、すぐそこに景炎の顔があった。長身の彼とこんなに顔が接近することがなくて、思わず一歩、後ずさる。
「そう言うことは、俺が先に言うんだろ。なんで、お前の方が先に言うんだ」
「し、知りません……!」
なんでと言われても困る。だって、好きになってしまったんだからしかたないじゃないか。
けれど、景炎は蘭珠の背中に腕を回すと自分の方へと引き寄せる。
気がついた時には、彼の腕の中で目をぱちぱちさせていた。なんて、素早いんだろう。
「俺は、お前が好きだ――先に言われるだなんて、不覚もいいところだ」
その言葉に蘭珠の頬が熱くなる。
それから不意打ちで口づけられて、ますます頬が熱くなった。




