本当に悪女になるのだろうか
皇太子の妹であり、景炎の姉である春華公主と再び顔を合わせたのは、それから二日後のことだった。
蘭珠が侍女達を連れて庭を散策していたところ、同じように散歩に出ていた春華と行き合ったのである。
「……あなたのところにお邪魔してもいいかしら」
そう春華に言われたら断る理由もなかったから、蘭珠は春華と並んで歩き始める。
蘭珠の部屋に入るなり、春華は深々と頭を下げた。
「お兄様が、今回はとんでもないことをしてしまったそうね。私からもお詫びするわ」
「……いいえ、春華様からお詫びなんてしていただかなくても」
春華の耳にもあの日の出来事が届いているとは思わなかった。いたたまれなくなって、首をすくめる。
「皇太子妃にも困ったものね……もともと田大臣側から強引に持ちかけた縁談ではあるけれど……兄に愛されてないのがわかっているから必死なのよ。兄に通ってもらわなければいけないんだもの」
「必死……ですか?」
蘭珠は詳細を知る必要はないからと、景炎は、事件の詳細については教えてくれなかった。春華ならば、何か知っているのだろうか。
「もともと、皇太子妃に頼まれて、あなたのところに行くつもりだったのよ。あんなことをしでかした皇太子妃を許してほしいと、私の口からは言えないのだけれど」
皇太子も皇太子妃も、今は自分の宮から出ないようにと厳命されている。春華は皇太子と同母の妹という立場を使用して、二人と会ってきたのだろうか。
「……あまり、気分のいいものではありませんね」
「ええ……それも、わかっている。兄の子を授かろうと必死なのよ。寵愛が薄いのはわかっていて、子供さえできればなんとかなると思っているのね。田家からの圧力もあるし」
「……それはわかりますが」
蘭珠の立場からしたら、同情はできない。
「皇子ができれば、何か変わるかもしれないと――皇太子妃も必死だけれど、兄が彼女のところに通わないのだから子を授かるはずもないのよね」
「……そうですね」
「だからね、皇太子妃は兄に逆らえないの。兄は、彼女を自由にできる言葉を持っているのだから。今回、あなたを招待させるために、兄はその言葉を使ったようよ」
――そんな簡単に言うことを聞かせる言葉なんてある?
言葉にはしなかったけれど、蘭珠の疑問は完全に春華には見抜かれていた。目の前で扇を広げた春華は、それで顔に向かって緩やかに風を送り始める。
「簡単なことよ。『俺のいうことを聞いたら、ひと月の間、お前の宮に通ってやろう』と言うだけでいいんだもの。皇太子妃はなんでもするでしょうね」
「……そんな」
――そんなの、ひどい。
蘭珠からしてみれば、男女の駆け引きをそんなことに使うなんて信じられない。緩やかに風を送りながら春華は、もう一つため息をついた。
「ええ、ひどい話ね」
――ただの女好きだと思っていたのに。
蘭珠の中で、皇太子に向ける嫌悪感がますます大きくなっていく。
「正直に言えば、兄のどこがいいのか私にはさっぱりわからないけれど。それでも、皇太子妃は兄のことが好きなのよ。皇太子である以外にいいところなんて何一つ思い当らないけれど」
自分の兄だからだろうか。
容赦なくずばずばと兄をこきおろす春華の様子はいっそ気持ちいいくらいだったけれど、蘭珠がうかつに同意するわけにもいかないので、笑って誤魔化すことしかできない。
「だからと言って、あなたにあんなことをしていいということにはならないわ。兄が迷惑をかけたと、もう一度お詫び申し上げるわ」
春華は、蘭珠に謝らなければいけない理由はないのに、兄のためにこうして頭を下げている。
――春華公主がここまで頭を下げているのだから。
本音を言えば許したくない。謝罪の言葉も受け入れるつもりはない。ただ、春華の顔は立てなければいけないと思った。
「謝罪は、もうけっこうです。皇太子殿下に、処分がくだされたのも聞いています。だから……もう、けっこうです」
「……兄の処分も不十分でしょうに」
春華のその言葉には完全に同意ではあるけれど、それ以上は何も言えなかった。
景炎も怒ってはいたけれど、彼より皇太子の方が圧倒的に権力を持っているのは間違いのないところだ。蘭珠としても、これ以上の処分を求めるわけにはいかない。
「……景炎もよくないのよ。もっと声高に主張すればいいのに」
「妙な噂になると困るので、これでいいんです」
「たしかにね。今回の処分については、田大臣からも、横やりが入ったみたいだし。まったくうんざりしてしまうわ」
春華は本当にうんざりしたというようにため息をついた。
景炎や蘭珠が騒ぎ立てれば、話が広まって皇太子の評判が下がることになるだろうが、その途中で「皇太子に犯されかけた」から「皇太子に犯された」に変化して広まってしまう可能性もある。
最初は景炎も兄の罪を追及するつもりであったけれど、鈴麗に説得されて、深く追及しなかったそうだ。
「責任を取らせるために、景炎のところではなく皇太子のところに嫁げばよい」なんて話になっても困ってしまうので、これ以上広まらないようにしておくしかないのだ。
――でも、春華公主は、皇太子の味方というわけではないのかしら。
春華は後に、物語最大の悪女として姿を見せることになるけれど、今のところはそんな気配はみじんもない。皇太子と景炎の仲をなんとか取り持とうとしているかのようにも見える。
「田大臣から見たら、皇太子殿下は娘婿ですものね。田大臣が残した功績を考えれば、最大の処分ではないでしょうか」
「あなたって、本当に――心が広いのね」
「広いわけではありませんよ。呑み込んだだけです。ただ……そうですね、皇太子妃の立場を考えたら、そうせざるをえなかったのだろうという気もします」
皇太子妃でありながら、皇太子の情は薄く、ほとんど通ってもらえない。世継ぎを得るために必死ならば、他の女性を犠牲にしてでもと思い詰める心情は許す気はないが、わからなくもない。
――私だって、景炎様のためならたいていのことはやるだろうし。
そのために高大夫に頼み込み、『百花』を組織した。
今、この国に多数の間者を送り込んでいるのだって、正直誉められたことではない。
「本当にあなたって人は」
もう一度ため息をついて、春華はぱちりと扇を閉じる。
「今度は、私の宮に遊びに来てちょうだい。あなたとは、もっと仲良くなりたいわ」
「ありがとうございます……でも」
春華は皇太子の実の妹だ。景炎の妃になる蘭珠と仲良くしていたら、何か問題が発生したりしないだろうか。
「あら、私のことは気にしなくていいのよ。だって、嫁いだら出て行く身だもの。気にしないで。今は、まだ喪に服しているけれど……いずれ、近いうちにそうなるでしょうね」
蘭珠にそう言い残し、それからしばらくの間おしゃべりを楽しんで蘭珠と春華は左右に別れた。
――本当に、あの人が悪女になるのかしら。
蘭珠には信じられなかった。
蘭珠の知っている未来では、春華はものすごい悪女だ。自分の野心のために蔡国に嫁ぎ、大慶帝国を滅ぼそうとした。
――そうね。このまま悪女にならないということもあるのかもしれない。
蘭珠の存在は本来ありえないものだ。そんな中で、春華の未来が変化するのかもしれない。ふと、そんな気がした。




