第101話 公爵令嬢の決意
翌朝、ヴィオレッタはいつもどおりエマに髪を整えてもらっていた。
鏡の前に座りながら、背後で丁寧に櫛を動かすエマの姿を見つめる。
「ねえ、エマ」
「はい、ヴィオレッタ様」
「昨日はちゃんと休めた?」
「ええ。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「そっか。ならよかった!」
ヴィオレッタは笑顔を浮かべたものの、エマの顔には疲れが残っているように見えた。
昨日、控え室で見かけた時もそうだった。いつもなら何気ない話にも楽しそうに応じてくれるのに、最近は時折、何かを考え込むように黙ってしまう。
(……やっぱり、気になるなあ)
エマは九年間、ずっと自分のそばにいてくれた。
幼い頃のわがままにも付き合ってくれて、今では誰よりも頼りになる存在だ。
そんな彼女が困っているのなら、少しくらい力になりたい。
ヴィオレッタは鏡越しにエマを見つめ、そっと口を開いた。
「エマ、今日の放課後、少し時間ある?」
「放課後、でございますか?」
「うん。ちょっとお話ししたいなって」
エマは一瞬だけ手を止めたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「もちろんでございます」
「ありがとう!」
ヴィオレッタは嬉しそうに笑った。
エマも微笑み返したが、その胸には小さな不安が広がっていた。
◇
放課後、ヴィオレッタは寮の自室でエマと向かい合って座っていた。
テーブルには紅茶と焼き菓子が用意されている。
普段なら何気ないお茶の時間だったが、今日は少しだけ空気が違っていた。
「……あのね、エマ」
「はい」
「最近、何か悩んでる?」
エマは驚いたように顔を上げた。
「……どうして、そのように思われるのですか?」
「だって、いつもと少し違うから」
ヴィオレッタは紅茶のカップを置き、まっすぐエマを見つめた。
「エマって、私が困ってる時、すぐ気づいてくれるでしょ? だから、私も気づけるようになりたいなって」
「……ヴィオレッタ様」
「もちろん、話したくないことなら無理に聞かないよ。でも、もし私にできることがあるなら、手伝いたい」
エマはしばらく黙っていた。
目の前にいる少女は、昔のヴィオレッタとはまるで違う。
幼い頃は、自分の思いどおりにならないことがあればすぐに怒り、周囲の人々の気持ちなど気にかけなかった。
けれど今は、こうして自分のことを心配してくれている。
その優しさが嬉しい反面、エマは胸の奥が苦しくなった。
「……実は」
小さな声が漏れた。
ヴィオレッタは何も言わず、続きを待った。
「実家から、縁談の話が届いたのです」
「……縁談?」
「はい。父が、私の結婚相手を決めたと」
ヴィオレッタは目を丸くした。
「えっ、エマが結婚するの!?」
「……まだ、正式に決まったわけではございません」
「そ、そうなんだ……」
ヴィオレッタは少しだけ混乱した。
エマが結婚する。
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
けれど、エマは二十四歳だ。結婚の話があっても、不思議ではない。
(……でも、なんだろう)
目の前のエマは、少しも嬉しそうではなかった。
「……エマ」
「はい」
「その人と、結婚したいの?」
エマの指が、膝の上で小さく動いた。
「……私の気持ちなど、関係のないことです」
「どうして?」
「私は、貴族の娘ですから。家のために役目を果たすことも、必要なのです」
エマは静かに答えた。
けれど、その声はどこか苦しそうだった。
「……でも」
ヴィオレッタは少し考えてから、もう一度尋ねた。
「エマは、今、幸せじゃないの?」
「……え?」
「私、エマがいてくれて嬉しいよ。毎日一緒にいられて、すごく幸せ」
ヴィオレッタは照れくさそうに笑った。
「だから、エマにも幸せでいてほしいの。私のためじゃなくて、エマ自身のために」
エマは言葉を失った。
その瞳が、わずかに揺れる。
「……ヴィオレッタ様」
「もし、その人と結婚したいなら、私は応援するよ。寂しいけど、ちゃんとお祝いする」
ヴィオレッタは一度言葉を切り、エマの顔を見つめた。
「でも、嫌なのに結婚するなら……それは、違うと思う」
エマは俯いた。
長い沈黙が流れる。
やがて、小さな声が聞こえた。
「……私は」
エマは膝の上で手を握りしめた。
「……結婚したく、ありません」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが少しだけほどけた気がした。
「私は、ここで働き続けたいのです。ヴィオレッタ様のおそばで、これからも……」
最後の言葉は、かすかに震えていた。
ヴィオレッタは静かに頷いた。
「……うん」
そして、柔らかく微笑んだ。
「話してくれて、ありがとう」
エマは顔を上げた。
「……ですが、父はすでに話を進めております。私が断れば、実家に迷惑がかかるかもしれません」
「……そっか」
ヴィオレッタは少しだけ考え込んだ。
貴族の結婚には、家同士の事情が関わる。
それくらいは、彼女にも分かっていた。
けれど、エマが望んでいないのなら、何とかできないだろうか。
(……私一人じゃ、分からないことも多いけど)
ヴィオレッタは顔を上げた。
「ねえ、エマ」
「はい?」
「お母様に、相談してもいい?」
「……イザベラ様に、ですか?」
「うん。お母様なら、こういうことに詳しいと思うんだ」
エマは驚いたように目を見開いた。
「ですが、そのようなことで公爵夫人のお手を煩わせるわけには……」
「そんなことないよ!」
ヴィオレッタは思わず身を乗り出した。
「エマは、私の大切な人だもん。困ってるなら、ちゃんと助けたい」
「……ヴィオレッタ様」
「もちろん、エマが嫌なら勝手に話したりしないよ」
エマはしばらく迷っていた。
実家の事情を公爵家に知られることは、決して望ましいことではない。
けれど、今の自分には、どうすればよいのか分からなかった。
そして何より、ヴィオレッタの真剣な眼差しを見ていると、もう一人で抱え込まなくてもよいのかもしれないと思えてきた。
「……お願いしても、よろしいでしょうか」
小さな声で答える。
ヴィオレッタはぱっと顔を輝かせた。
「もちろん!」
その笑顔を見て、エマも少しだけ微笑んだ。
◇
その日の夜、ヴィオレッタは母イザベラへ手紙を書いていた。
『お母様へ。
少しご相談したいことがあります。
エマのことで、どうしてもお話ししたいことがあるのです。
お時間をいただけませんか?』
そこまで書いて、ヴィオレッタは筆を止めた。
(……どう書けばいいんだろう)
詳しい事情を手紙に書くべきか迷ったものの、エマの実家に関わる話でもある。まずは直接会って相談した方がよいだろう。
ヴィオレッタは短い文章を整え、封筒へ入れた。
「……よし」
机の上に置いた手紙を見つめ、小さく頷く。
(エマが自分で決められるように、私も頑張ろう)
以前の自分なら、きっと何も考えずに飛び出していたかもしれない。
けれど、今は違う。
エマの人生を、自分の気持ちだけで決めてはいけない。
だからこそ、できることを一つずつ考えよう。
ヴィオレッタは窓の外に広がる夜空を見上げた。
秋の月が、静かに輝いていた。
その光を見つめながら、彼女は心の中でそっと呟く。
(……大丈夫。きっと、何か方法があるはず)
エマが安心して笑えるように。
ヴィオレッタは、できる限りのことをしようと決めていた。




